江戸期の「御詠歌本」発見 郡内観音霊場33寺院まとめ 「昔の人の祈り知って」

2024.02.29
地域歴史注目

森田さんの実家で見つかった「多紀郡三拾三所観世音じゅんれいうた」。各寺院の御詠歌が記されている=兵庫県丹波篠山市安口で

兵庫県丹波篠山市安口出身の森田栄さん(67)=同県三田市=が、代々、庄屋を務めた実家で、旧多紀郡内(現・丹波篠山市)の観音霊場「多紀郡三十三所」の御詠歌本を見つけた。江戸後期に作成されたもので、郡内33寺院とそれぞれの御詠歌をまとめており、住民が巡礼しながら歌っていたとみられる。森田さんは、「作られたのは天保の大飢饉(1833―39)の後で、『このようなことが二度と起こらないように』と願ったのではないか。コロナもようやく収束したが、各地で災害もある。このような時だからこそ、もう一度、昔の人の祈りを知ってもらいたい」と話している。

見つかったのは「多紀郡三拾三所観世音じゅんれいうた」。持ち運びやすいハンドブックサイズで、これを手に人々が各霊場を巡っていたことがうかがえる。

御詠歌は盆などに各家庭で歌われ、「一番紀伊国那智山青岸渡寺」で始まる西国三十三所御詠歌が有名。

「多紀郷土史考」によると、多紀郡三十三所は江戸時代前期の延宝2年(1674)、藩主だった松平康信が「西国―」を参考に起こしたものとされる。その後、時代が過ぎるとともに忘れられていったが、江戸時代後期の弘化2年(1845)に再び巡礼が始まり、その際、篠山町の「和久屋忠右衛門」が御詠歌本を作った、とある。

また、昭和40年(1965)に多紀郡三十三所会が発行した「郡西国三十三所霊場御詠歌」には、大正13年(1924)に多紀郷土史考の著者でもある奥田楽々斎が地域の僧侶と共に再々興。昭和13年(1938)には大戦直前という時代背景もあってか、戦勝や武運長久、戦没者慰霊などの願いを込めて、毎月13日を巡拝の日と位置づけ、最多で一日850人、平均でも150人が巡礼に加わったとある。

「じゅんれいうた」を手にする森田さん

森田さんが見つけたのは弘化2年に和久屋忠右衛門が再興した際のもので、冒頭の文を現代語訳すると、「御信心の方は遠慮なく取りに来てください。上立町 和久屋」とある。また、野中や小枕、小川町の人物の名があり、和久屋だけでなく、さまざまな協力者と共に行った一大事業だったことがうかがえる。

市立歴史美術館の協力で御詠歌を解読すると、それぞれの寺の名前や、地名などが盛り込まれていることが分かった。

例えば、第一番は東窟寺(藤岡奥)で、御詠歌は、「救わんと大悲のかげは西よりも 照らす東の岩屋寺かな」。第三十一番の誓願寺(魚屋町)は、「一声に掬い取らんの誓願寺 まして歩みを運ぶこの身は」など。

今もこの御詠歌が伝わっている寺があり、先祖供養など折々の行事で歌われている。

一方、第7番の文保寺(味間南)は、「愚かなる人をも救う願いとや まして教えの文、やすき身は」とあるが、現在、同寺に伝わっているのは最後の部分が、「まして教えの文、保つ身は」で、変遷がうかがええる。

森田さんは、安口の金比羅山内に西国三十三所の観音像が安置され、現在も毎年「観音まつり」が営まれるなど、継承されていることに着目。自治会に山の環境整備を提案し、今年度から3年計画で雑木伐採などが進んでいる。

金比羅山の三十三所は天保の大飢饉を受け、村人の代表が西国各霊場を巡って各寺の砂を持ち帰り、安口や近隣の村の有力者からも協力を得て完成させたものと伝わり、多紀郡三十三所の再興と同時期に整備したものとみられる。

この言い伝えの裏付けとなる史料を探す中で、「じゅんれいうた」などを見つけた。

安口は多紀郡内にありながらも、篠山藩ではなく亀山藩に属しており、多紀郡三十三所の寺院には安口以東の集落の寺院は含まれていないが、森田さんは、「年代も近く、互いに影響し合った可能性が高い。藩は違えど、村々の結びつきが強かった証しでもある」とし、「大変なことがあると人々は祈りをささげてきた。今こそ、そんな祈りに目を向けてほしい」と話している。

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