兵庫県丹波市にある黒井城について学んだ、地元の黒井小学校6年生が、「黒井城の戦い」で城主の赤井(荻野)直正に味方し、共に明智光秀と戦った八上城主・波多野秀治のおひざ元、丹波篠山市立八上小学校6年生に学習の成果をオンラインで発表した。
「黒井城跡の歴史と魅力」と題し、劇、絵本、ステッカー、御城印、動画、サイト(ホームページ)、看板、ポスターなど多様な広報媒体を用い、立体的に説明した。
「黒井城跡の歴史と魅力」と題したサイトを作った班は「世界に広がり、外国人でいっぱいになるように、との思いを込めた」と発表。赤井直正、明智光秀の紹介のほか、戦法や黒井城跡に残る赤井軍の仕掛け「たてぼり」などを、画像を交えて説明した。
ステッカー御城印チームは、「毎年、黒井城まつりをやっているのに、なぜ多くの人が(城主の赤井)直正を知らないのか。ステッカーを見るだけで思い出す御城印を作った」と意図を説明、「赤井の家紋を入れた」と工夫点を紹介した。
黒井小児童から「八上城まつりはありますか」と尋ねられた八上小児童は「ない。デカンショ祭がある」と答え、「八上小には波多野秀治の子孫がいます。赤井の子孫はいますか」と逆質問。黒井小児童は「子孫が三重県にいるらしいです」と答えた。
八上小児童から「黒井城に行ってみたい」「赤井の戦法が良く分かった」と反響があり、黒井小の児童は喜んでいた。
天正年間、織田信長の命を受けた明智光秀が、丹波攻めを繰り広げた。同3年、丹波国に覇を唱えていた「丹波の赤鬼」こと赤井直正との戦いでは、直正が光秀軍を挟み撃ちにする戦法「赤井の呼び込み戦法」を展開し、光秀は敗走。この作戦は、丹波篠山市の八上城主・波多野秀治が赤井方に寝返ったことに起因するともいわれ、直正と秀治との間にかねてからの密約があった可能性もあるという。光秀は同6年、再び黒井城を攻め、直正を病で失っていた赤井方は敗れ、黒井城は落城した。