12月8日、日本は真珠湾攻撃、マレー作戦開始と同時に米英に宣戦布告し、「太平洋戦争」に突入した。これを、欧米の植民地支配を打破する意味を持つ「大東亜戦争」と呼ぶことについて筆者は抵抗を感じてきた。しかし「大東亜」の理想を、決して建て前でなく愚直なまでに信念とする軍人がいたことを知り、大きな感銘を覚えた。▼藤原岩市少佐(後に中佐)。戦史に残る「F機関」を率い、マレー、スマトラの民族解放工作に奔走。各地で敗退した英軍に属するインド軍人を捕虜とは扱わず、インド国民軍に仕立て上げ、その数は5万人にまでなった。これと連携してビルマから英軍支配下のインドに進軍するという日本軍司令部の目論見は、超過酷なインパール作戦の惨敗により挫折する。▼その経緯は最近復刊された自著「F機関」に詳しい。とまれ藤原が貫いた「アジア民族の自由自決の尊重」の精神はチャンドラ・ボース初め多くのインド指導者との絆を強めると共に、戦後のインド独立の原動力ともなった。▼黒田庄出身、旧制柏原中卒の藤原氏は筆者の竹馬の友、A君の叔父。戦後自衛隊で陸将となられた。筆者が中学生時代、A君と共に初めて東京に行った際、2晩泊めてもらったことがある。当時、そんな立派な人とは露知らなかったが、温顔のみ記憶にとどまっている。(E)