「東電から1の高台にある会社で地震に遭難。四つん這いになってもウサギのようにぴょんぴょんはねさせられるような揺れだったが、家に戻ると幸い大きな被害はなく、妻や孫も無事だった。車内で夜を過ごした翌朝、全町民に緊急避難しろとの放送」。▼集会所に集まり言われるままにバスに乗り込んだが、何故避難するのか、どこに行くのか、誰に聞いてもわからない。「どうせ明日か明後日には帰れるだろうから、とりあえず行くべ」と、着の身着のまま従ったが、そこから三春、新潟、さらに千葉と転々とし、会津若松のホテルに3カ月泊まった後、市内に作られた仮設住宅に落ち着いたのは、7月半ばだった。▼本紙読者の福島県沿岸部への被災地ツアーで訪ねた原発直下、大熊町民の避難先の仮設住宅で自治会長のTさんから聞いた話。温暖なふる里から雪深い会津に引っ越して満4年を迎える。▼「それにしても発生翌日の午後、建屋が吹っ飛ぶテレビ画面を見るまで、原発がそんな状態とは、全く頭に浮かばなかった。小学生の頃から『絶対安全』と教え込まれていましたからね。ものすごく寒くて辛かったけど、それまでは割に気楽だったんです」とTさんは述懐する。▼大熊町民1万人余は今なお全員町外に避難し、役場もいわき、若松など3カ所に分散している。(E)