「霧は丹波霧と言われるものだった。…朝起きると八上城はいつも深い霧で包まれていた。霧の海の中に埋没していた」。井上靖の小説『戦国無頼』の一節である。「丹波霧」という言葉があるほどに、丹波の地を覆う霧は特異な自然現象と言える。▼丹波霧は、絵描きの心をとらえた。その一人が茨城出身の小川芋銭。市島の俳人、西山泊雲と親交のあった芋銭はしばしば丹波を訪ね、ときには長逗留した。泊雲宅に近い石像寺の庫裏の2階を画室に絵を描いた。その一つが霧の流れる丹波の峰々を描いた「丹陰霧海」。画室は「烟霧楼」と名づけていた。丹波霧にどれほど魅せられたかがわかる。▼植野記念美術館で展覧会を開催中の日本画家、常岡幹彦氏も丹波霧に魅せられた。父親で画家の文亀氏の影響か、幼い頃から絵に親しんだが、画家になることに迷いがあった。決心をつけさせたのは丹波霧だった。「峠を歩くと、流れる霧が体を通り抜けるように思え、これを表せたら」と思い、東京芸大に進んだ。▼「無情説法」という仏教語がある。感覚が鋭敏だと、言葉を語ることのない山川草木から説法を聞くことができるというのだ。自然から何かを感じ、何かが見えた時に詩や歌、さらには絵が生まれる。▼芋銭も常岡氏も、丹波霧から説法を受けたに違いない。(Y)