太平洋戦争中、兵庫県丹波市氷上町新郷の赤井野原野に、陸軍のグライダー(滑空機)訓練所があった。将来の航空兵を夢見る近郷の15歳前後の少年たちが、最初に「空を飛ぶ体験をする場」で自身の適性を知る場だった。同訓練所の資料は少なく、書物に残るわずかな記述と、祖母と義父が調理係をしていた訓練所を毎日のように訪れていた森島保男さん(85)=終戦時国民学校高等科2年の13歳=の10歳時前後の記憶を頼りに、赤井野グライダー訓練所の実像に迫る。
赤井野原野は、現在のひかみカントリークラブと、ヒメボタル観察会が開かれる林の一帯。平らな土地に松林が広がる共有山だった。
高台にあるゴルフ場クラブハウス付近に「中級」の訓練場と格納庫があり、平地のグリーンの一部が「初級」の訓練場だった。戦後植林された、ヒメボタルが住む林の入り口左手に寄宿舎2棟と厨房と教官の官舎、その奥にもう1棟格納庫があった。
森島さんは、スレートぶきの寄宿舎に、最盛期には100人以上の訓練生がいたと証言する。「氷上郡内の人か、もっと広域かは分からないけれど、寄宿舎にぎっしり人がいた」と思い起こす。
グライダー場の始まりは定かではない。「柏原高校百年史」によると、昭和16年(1941)に旧制柏原中が赤井野原野を開墾し、滑空訓練をしたとある。「百年史」には、同校が英語の模試で全国1位になった副賞に、主催会社からグライダー一式が授与されたと、訓練実施に至った経緯が記されている。
卒業生の父兄も同型の2機を贈呈した。「以来、全校生徒から選ばれた25人の滑空班を中心に本格的な飛行訓練が行われるようになった。これを契機に、昭和17年、滑空班から甲種飛行予科練練習生が生まれ、以後、続々と予科練志願者が現れる」と結んでいる。
海軍は昭和5年に飛行搭乗員養成制度を設けており、旧制中学4年生で甲種に志願できた。
昭和16年には文部科学省と陸軍が、中学3年生男子の滑空訓練を正課(授業科目)とすることを決め、翌年から実施された。
戦後に地元新郷の郷土史研究家が綴った「新郷区西方誌」には年代の記載はないものの、建設の役を委嘱された地元の名士がグライダー場整備に「郡内外から動員された青壮年、学生を率いた」とあり、半ば官営工事だった様子が伺える。同書は、「グライダー場の完成で、陸軍グライダー部隊が来駐し、新郷は一躍篠山に次ぐ丹波第二の軍都の観を呈した」と綴っている。その時期が、旧制柏原中が訓練を始めた昭和16年の前か後かが、判然としない。