「破戒」のモデル・大江礒吉 生誕150年、部落差別と戦った教育者

2018.09.14
ニュース丹波市歴史

島崎藤村の小説「破戒」のモデルとなったといわれている大江礒吉

島崎藤村という有名な小説家に「破戒(はかい)」という作品があります。被差別部落出身の教師を主人公にした小説で、この作品のモデルになったといわれているのが、明治34年(1901)に33歳で兵庫県氷上郡(現・丹波市)の柏原高校(当時は柏原中学校と言っていました)の2代目校長になった大江礒吉(ぎきち)。今年で生誕150年を迎えます。礒吉は、その「生まれ」のためにいわれなき差別を受けましたが、差別とたたかいながら教育者として見事な生涯を生き抜きました。

母のせんべい「もったいない」

礒吉は、明治元年(1868)、今の長野県飯田市に生まれました。もともとの名前は磯吉(いそきち)で、のちに礒吉と改めました。

磯吉の祖父も父も「番太(ばんた)」という仕事をしていました。村の番人として警備の仕事をしたり、ときには変死体の処理や墓掘りをしたりしていました。「番太」は、いやしい職業とされ、さげすまれていました。

磯吉は小さいころから利発な子どもでした。両親は「何としても学問で身を立たせてやりたい」 と願い、貧しさにあえぎながらも、必死の思いで磯吉を学校に通わせました。

母親は、磯吉の学費や生活費をかせぎ出すため、せんべいを焼いて、遠くまで売り歩き、夜遅くに帰ってきました。こんな話があります。母親は、売れ残ったせんべいを磯吉に食べさせようとしましたが、母親がどれだけ苦労しているかを知っている磯吉は、せんべいを食べることが何とも申し訳なく、母親がいくら 「お食べ」と言っても、「もったいない」と食べませんでした。磯吉の人柄がつたわってくるエピソードです。

ランプ頼りに猛勉強

磯吉は14歳で、中学校(今の飯田高校)に入学しました。中学校に入学できる生徒は少なかった時代です。にもかかわらず、磯吉が入学できたのは、近所の人たちらの支援があったからです。成績が優秀で、日ごろの行いも良かった磯吉は近隣の人たちから愛されていました。

この中学校で、大きな出会いがありました。武信由太郎(よしたろう)という英語教師との出会いです。 武信は、我が国の英語教育に多くの業績を残した先生で、欧米の文明に明るく、自由主義を尊んだ人物でもありました。

磯吉をかわいがった武信先生は、欧米諸国の文化を磯吉に紹介し、キリスト教精神に基づく自由や平等といった民主主義の考え方を説いて聞かせました。教育に対する磯吉の考え方には、自由と平等を尊ぶところがありますが、武信先生との出会いがその出発点になったのでしょう。

貧しいために、辞書や参考書も買えない磯吉のために、武信先生らは英語辞典などを貸し与えてくれました。磯吉は毎夜、薄暗いランプを頼りに、それを写しながら勉強に励みました。中学校を卒業し、長野師範学校に進んでからも、磯吉は猛勉強をしました。「差別に打ち勝つには勉強しかない。勉強で負けないようにしなければ」と必死の思いでした。

「生まれ」理由に塩まかれる

教育者の道を志した磯吉は、18歳で小学校の先生となりました。しかし、磯吉の「生まれ」が問題にされ、磯吉はその学校を追い出されるようにして去っていきました。

20歳のとき、東京にあったわが国でただひとつの高等師範学校に入学しました。わが国の教育界で、最高の学校とされたところです。入学生はわずか30人。しかも磯吉はトップの成績で入学し、さらにトップの成績で卒業しました。

卒業後、磯吉は母校の長野師範学校の教壇に立ちました。しかし、差別がなかったわけではありません。教育学の講習会が開かれたとき、磯吉の宿泊した宿が、磯吉の泊まった部屋の畳替えをし、 塩をまくという事件がありました。

明治26年(1893)、磯吉は大阪師範学校の教諭となりました。このとき、磯吉は名前を「礒吉」に改めました。新たな人生を切り開くために、自分自身に何らかの変革を求めたのでしょう。しかし、わずか2年で大きな壁にぶつかりました。 「生まれ」があばかれたのです。

ある日のこと。礒吉の母親が、学校にやって来ました。そのときの母親の言葉づかい、態度などに疑問を持った生徒が礒吉の身元調査をしたのです。礒吉を退ける動きが起こり、鳥取師範学校へ移りました。そして明治34年、柏原中学校の2代目校長として着任しました。

柏原中で「理想の学校」めざす

礒吉は、柏原中学校で 「理想の学校」づくりをめざしました。その一つが、授業料の大幅な減額です。家が貧しいため、入学しながらも学校を途中でやめていく生徒が多く、経済的な負担を減らそうとしたのです。貧しく、しいたげられてきた礒吉です。社会的な弱者が、そこから抜け出すためには教育しかないという思いを強く持っていたのでしょう。

生徒の自主性や自立心を高めるために、生徒の自治会活動や部活動を大いに奨励し、軟式テニス部やベースボール部、英語弁論部などをつくることを認めました。「学友会」という組織もつくりました。これは同窓生も加わった組織で、機関誌や雑誌の発行などを計画しました。

当時は、上級生が下級生をげんこつでなぐってもいいという空気が校内にありましたが、礒吉はそれを強く戒めました。このように礒吉は、自由と平等を重んじ、人間性を尊ぶ教育をつらぬこうとしたのです。

しかし、軍国主義が広がっていた当時、礒吉の教育を「なまっちょろい」と受け止めていた生徒たちがいました。このため、 柏原中学校で初めて行われた卒業式で、卒業生たちが式をボイコットしようという動きが起きました。

担任の先生の説得で、式だけは行われましたが、 式のあと、卒業生が学校への不満をぶちまけた「声明書」が見つかり、先生たちの間で大騒ぎとなりました。しかし、礒吉は「いったん卒業証書を渡した以上は社会人であり、校則で律すべきではない」と、問題にしませんでした。生徒を信頼し、深い愛情を寄せたことを物語るエピソードと言えるでしょう。

のちの首相・芦田均から「ナマズ」とあだ名

礒吉の「生まれ」は、生徒たちも知っていました。礒吉はそれをことさら隠すこともなく、教育に対する自分の姿勢を堂々とつらぬきました。そんな礒吉でしたが、病気のため、 明治35年(1902)に亡くなりました。

ちなみに、柏原中学の校長時代、礒吉は生徒から「ナマズ」と呼ばれていました。このあだ名をつけたのは、のちに内閣総理大臣になった柏原中学の第3回生、芦田均でした。

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