兵庫県篠山市内の市街地にある元遊郭の建物「大正楼」が、老朽化などによる損傷が激しいため、篠山市が「特定空き家」に指定し、近く取り壊されることがわかった。「篠山町七十五年史」によると、大正楼は、昭和初期に愛人の男性を殺害した「阿部定」が最後に遊女として勤めた場所でもある。地元住民は、「崩れ落ちているところもあり、危ない状態になっていたので、取り壊されると聞き安心している」とし、「遊郭があったということに良い印象はない。早く歴史の中に埋没していってほしいと思う」と複雑な心境を吐露している。
連隊移転に伴い設置の「京口新地」
建物は木造瓦葺き2階建て。表から見ると玄関やひょうたん型の窓など、当時のままのように見えるが、背後は崩れ落ちており、倒壊の危険性が高い。
このため市は空き家対策特措法に基づき、昨年12月7日付で現在の所有者に対し、建物の除却か大規模修繕を命じたものの、期限を過ぎても対策が取られていないため、近く除却する方向で計画を進めている。
同町史によると、大正楼がある一帯は、かつて「京口新地」と呼ばれた遊郭。明治41年(1908)、陸軍歩兵七十連隊が同町内に移転したことに伴って設置された。
時期は定かではないが、売春防止法が完全施行された昭和33年(1958)までに京口新地もなくなったとみられる。
当時の痕跡として、数軒の元遊郭の建物が残っていたが、大半が取り壊され、現在は閑静な住宅街となっている。
定の調書にも記述
阿部定が供述した「予審訊問(じんもん)調書」などを収録した「阿部定手記」(中公文庫、前坂俊之編著)によると、東京・神田生まれの定が大正楼に流れ着いたのは昭和6年(1931)で、26歳の冬。当時、源氏名を「おかる」と名乗っていた。
遊郭を転々としていた定は大正楼を、「前よりも酷い」とし、「何しろ寒い冬の晩でも外へ出て、客を引っ張るような辛い勤めをしなければならない」と過酷な仕事だったことを明かしている。
その後、客と駆け落ち同然で逃げ出したものの連れ戻され、源氏名を「育代」に変更。なおも逃亡を試み、「ある時、表の大鍵が下りていながら、かかっていないことに気がついたので、客を送り出した後、店の者を安心させておき、そっとそこを抜け出し、一番電車を待って、神戸まで逃げてしまい、それ以来、娼妓から足を洗ってしまいました」と供述している。
定は昭和11年(1936)、愛人の男性を殺害。逮捕され、懲役6年の判決を受けたが、5年後に恩赦を受け、出所している。バーなどを経営した後、昭和46年(1971)に失踪し、消息不明となった。
地元住民によると、当時のことを知る人は少なくなったが、時折、建物を見物に訪れる人がいるといい、カメラを手に地域を歩かれることに困っているという。