実りの秋を迎え、地方では五穀豊穣に感謝する秋祭りが各地の「村の神社」でいとなまれている。兵庫県丹波市内に神社は228(神社本庁に宗教法人として届けているもののみ)あるが、ほとんどが1自治会に1つ。自治会内に神社が1つもない所がある一方、同市青垣町東芦田自治会(約180戸)は、延喜式内社の高座神社を含め、なんと14社もある。明治末期の政府の「神社合祀令」に与しなかったことで、先祖代々、連綿と続いてきた氏神をまつる文化が断絶することなく、今日まで続いている。
「よりどころ」大事に一村一社進まず?
東芦田にあるのは高座、泉瑞、地、小將、御霊、須賀、山、地、大神、三柱、蘆田、八幡、愛宕、稲荷の14社。最も氏子が少ない神社は2戸でまつり続けている。素戔嗚尊(スサノオノミコト)など、複数の神社でまつられている祭神もある。
これら全ての神社の宮司を務める梅只敏幸・高座神社宮司(74)によると、高座神社が東芦田自治会全体の「総氏神」で、他は、小字(こあざ、1自治会の中でさらに細分化したもの)ごとにある「組の氏神」という。同地区に神社が多い理由は、明治39年(1906)の「神社合祀令」に村人が与しなかったことにあるという。
「合祀令」は、神社の数を減らすため、時の西園寺公望内閣が一町村一社となるように出したもの。▽統合して大きくした方が神社に威厳が持たせられる▽維持がしやすい▽当時は地方自治体が神社運営費を出す前提で財源に見合う数まで減らす―というもので、10年足らずの間に、全国的に約20万社あった神社の約3分の1が取り壊された。
一方、その土地土地の信仰や文化のよりどころがつぶされることを嫌い、「一村一社」に取り組まない動きがほうぼうであった。理由は不明だが、東芦田自治会の村人も合祀をよしとしなかったため、今日まで「合祀令前」の姿が続いている。
高座神社に残る「神社明細帳」に、明治12年(1879)当時、高座神社が管轄していた神社の詳細な記録があり、14社の克明なデータも記載されている。ほとんどが、創立年は不詳だが、江戸期に再建されており、少なくとも東芦田自治会に数多く残る神社は、江戸の頃のようすを現代に伝えている。
高座神社の元宮総代で、現在、丹波市の神社総代会の会長を務めている小寺昌樹さん(78)は、「ルーツが異なる人があちこちから集まって住みつき、それぞれが神社をつくり、大切にした。『自分たちの神様が大事』と、独立心が強く、合祀が進まなかったのでは」と仮説を立てる。東芦田の複数の神社で同じ祭神がまつられている点も「例えば村のどこかで火事が起きたら、『うちも』『うちも』と火の神様をまつったのだろう」と想像する。
小寺さんが住む東芦田の小字・殿谷には、三柱、大神と、組に2つの神社がある。小寺さんが父に聞いた話によると、昭和50年代に氏子の減少を背景に合祀話が持ち上がったが、災いめいた出来事が同市青垣町外であったという話を聞き、立ち消えになったという。
「人口が少ないところで守るのは大変だが、神とのつながりが、よそと東芦田ではちょっと違うのかな」と笑った。
東芦田自治会を含む青垣町芦田地区は、栗住野自治会に5、田井縄自治会に3、西芦田自治会に3、口塩久自治会に1神社(明治12年にはもう1社あった)あり、地区全体で合祀に取り組まなかったようだ。
2戸で守る神社、クマに破壊されたことも
東芦田自治会14社の中で、最も小さいのが、「山神社」。荻野義晴さん(76)と荻野一喜さん(65)の2戸で守っている。宮当番は1年交代、毎月掃除し、サカキを絶やさず供えている。
同神社は、東芦田から隣接する京都府福知山市に抜ける「穴ノ裏峠」が整備される以前に、人々が天田郡(現・福知山市)と往来していた「蓮根峠」のふもとにある。梅只宮司によると、東芦田自治会の「北の守り」として、災いが入って来ないようにまつられたとみられる。
明治12年の「神社明細帳」によると、山の神、大山祇命(オオヤマツミ)をまつっており、創建は不詳。寛政7年(1795)に再建された。当時の信徒は「35人」とある。古くは7戸でまつっており、平成の始め頃に2戸になった。
10年ほど前にはミツバチが営巣した社殿をクマに壊され、13万円余りずつを出し合って修復。同神社のそばのお稲荷さんの鳥居も5、6年に1度新調しなければならず、そのたびに数万円かかるという。地元の大工の協力で価格は抑えてもらっているが、維持費がのしかかる。
毎年12月1日に例祭を開く。これとは別に2月19日に神社に集まり五穀豊穣を祈願する「午」とみられるまつりがあり、半世紀ほど前までは境内に火をたいて、角が立たない、丸い団子のようなものを参拝者に配るにぎやかな時代もあった。
境内のイチョウの大木になるギンナンをかつては入札制にし、収益を神社の維持費にあてていた時代もあった。