片山八頂と阪鶴鉄道

2007.10.15
丹波春秋

 きょう10月14日は「鉄道の日」。明治5年、日本で初めて鉄道が開通した日だ。それから27年後に大阪―福知山間で阪鶴鉄道が開通した。輝かしい出来事だが、その裏側に片山八頂という人物がいた。▼柏原に生まれ、神戸で弁護士を開業。その後、郷里に戻って柏原町議員として町政にかかわった。阪鶴鉄道の開通を前に、柏原駅の位置問題が浮上したとき、柏原の中心地に近いところに駅舎を設置するという意見が大勢だったのに対して、八頂はひとり異論を唱えた。▼「柏原の将来や氷上郡の発展を考えると、柏原町の北端に設けて、石生駅とひと所にすべき」と主張したのだ。しかし、八頂の先見の明は取り入れられなかった。その理由のひとつは、八頂が主張している地点は、八頂の住まいに比較的近く、付近には所有している田畑が多かったからだ(榊賢夫氏著『丹波柏原』)。▼駅舎問題ののち、八頂はすべての公職から身を引き、40歳過ぎで隠居、俗界と一線を画した。庵を設けて風月を友にし、50年もの歳月をかけて庵に庭園をつくる一方、南画を描いて京都の名僧らと交わった。▼八頂の主張に、周囲が邪推したような私心がなかったことは、その後の生き方からしても明らかだ。「燕雀(えんじゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」。この言葉が頭をよぎる。(Y)

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