人民の権利や自由の拡大を目標に掲げ、人民の参政権を求めて国会の開設などを要求した自由民権運動。明治時代前半に巻き起こり、全国的に広がった自由民権運動に名を残した人物が兵庫県丹波篠山にいる。法貴発(ほうき・はつ)である。法貴は、丹波篠山を拠点に自由民権運動に打ち込み、この運動の主導者である板垣退助とも親しく交わった。運動の成果が実り、国会が開設されることになり、明治23年(1890)7月に行われた第1回衆議院選挙に勇んで出馬、見事に当選した。しかし、喜びもつかの間、法貴には非業の死が待ち受けていた。
法貴は弘化3年(1846)、篠山藩の足軽の家に生まれ、7歳で篠山藩の藩校「振徳堂」に入門。秀才のほまれが高く、幕府の学問所である昌平校に派遣された。明治5年には大蔵省に採用され、さらに福岡県の幹部として転任した。
翌年から各地で不平士族による反政府運動が活発になり、明治9年には福岡県下で「秋月の乱」が勃発。翌10年には、西郷隆盛を首領とした「西南戦争」が起きた。法貴はそれらの鎮圧に奮闘。活躍が認められて昇進を果たし、今でいうと副知事クラスにまでのぼりつめたが、薩長の藩閥勢力による専制的な政治に疑問を抱き始めた。また、肺を患うという決定的な理由のため、明治11年、仕事を辞め、篠山に帰郷。家業の薬局を営む傍ら、子弟の教育にあたった。
人生変えた一大事件
翌12年8月15日、法貴の人生を大きく変える「演説禁止事件」が起きた。
事件の舞台は、丹波篠山市立町にある尊宝寺。大阪の文化団体が開催した演説会に400人を超える聴衆が集まり、篠山警察署の巡査も様子を見に来た中、法貴は、弟子に促されて演説し、国会を開設することの必要性などを説いた。演説会からおよそ2週間後、県から「今後、県内で演説することを禁じる」との命令が法貴に下された。演説会の模様が、警察を通じて県に報告されたのだ。
演説禁止の理由が示されていなかったため、法貴は、兵庫県令の森岡昌純に理由を問う書面を出した。その返事は「国安を妨害すると認められたから」だった。では、自分の演説のどこが国安妨害に相当したのか、法貴は再度、書面を出して抗議した。これに対する県からの返答は、「理由を明示すべき理由はない」という、にべもないものだった。
演説禁止事件の前年の11年、政府は演説取り締まり令を発布していた。人々を扇動し、国安を妨害すると認められたときは演説禁止を言い渡す、というもの。この取り締まり令を根拠に、法貴に演説禁止命令が下された。近畿地方では初めての処分といわれる。命令を下した県令の森岡は旧薩摩藩士で、自由民権家を圧迫した地方長官として「圧制五人男」に名を連ねた人物でもあった。
この演説禁止事件が、法貴の自由民権家としての出発点になった。自分の軸足を「官」から「民」に移した。かつては反政府運動である士族の反乱を鎮圧する側にあったが、一転して反政府運動を進める側となった。
「演説禁止は地獄の法」
演説禁止の処分に納得できない法貴は、世論に訴えるため新聞に投書した。東京で発行されている新聞の各紙に演説禁止事件が報じられたが、挿絵入りの風刺雑誌「団団珍聞」では風刺画が載った。寺の山門に僧侶らしき人物が仁王立ちになって立ちはだかり、寺に入ろうとしている一人の男を食い止めている。その男が着ている羽織には、「発」の字があり、山門そばに立っている石碑には「管内に入って演説することを許さない」との旨の言葉が書かれている、というもの。演説禁止事件は、朝野新聞の論説にも取り上げられ、「演説禁止は言論の自由を奪うものであり、現世における地獄の法」と厳しく非難した。
結社つくり著書発行
明治13年1月、法貴は篠山に「自治社」という結社をつくった。会員は30人ほどで、ほとんどが旧篠山藩士。尊宝寺に事務局を置き、国会開設の実現と地域住民の自治拡張を目標に掲げ、演説会を開催した。同年6月には、著書『国安論』を発行した。演説禁止の理由が「国安妨害」とされたことに対抗したものだ。法貴は同書で、「国安とは、わが国の人々が穏やかな幸福を味わえること」として、「法律や政治、経済を論じ合うことは、国安にかなうことである。思想や意見の違うものを取り入れて吸収することこそ、国安の保持につながる。言論活動を国安妨害という理由で禁じることは間違っている」と主張。薩長土肥を中心とした藩閥政府こそ民権を認めずに抑圧し、国安を妨害しているとした。
明治13年11月、県会議員に当選。15年には、自治社を母体に自治党を結成し、新たな反政府活動を展開した。
明治20年には上京し、中央の自由民権家らと接触。三大事件建白運動に関わるなど、活発に活動した。この運動は、地租の軽減や言論集会の自由、外交失策の回復の3つを要求したもので、元老院や政府高官に建白書を提出した。こうした自由民権運動の激化に抗し、政府は20年12月25日に保安条例を制定、発布し、東京にいる急進的な運動家を東京から追放した。尾崎行雄、中江兆民、星亨ら、その数は450人余りとも言われ、法貴も12月26日、2年間の東京退去を命じられた。自由民権家としての実力を政府が認めていたことの証と言える。
有力者5人激戦展開
明治7年から17年までの間に全国で1275を数える結社を生み出し、会員数は4万人から6万人とも推計されている自由民権運動。この運動の広がりに国会が開設されることになり、明治23年7月1日、日本で初めての衆議院選挙が行われた。待ち望んだ選挙に法貴は勇んで立候補した。
選挙区は兵庫県の氷上郡と多紀郡の2郡。氷上郡からは、のちに阪鶴鉄道開通の功労者となった田艇吉、のちに県会議長を務めた飯田三郎の2氏、多紀郡からは、法貴と同じく自由民権家で全国各地の新聞社に勤め、論陣を張った山川善太郎、大山村の大地主の園田多祐と、法貴の3氏が出馬した。そうそうたる顔ぶれが火花を散らした。
投票ができる有権者は、直接国税15円以上を納めている満25歳以上の男子に限られていた。両郡合わせて1807人。法貴も山川も、氷上の成松に選挙本部を置き、入り乱れた選挙戦を展開した。
開票の結果、法貴が601票を集めて当選。田艇吉は420票で、次点に終わった。
激戦を制し、晴れて衆議院議員となった法貴だが、当選後まもなく病に伏した。板垣退助は「死を賭して上京せよ」と再三、電報を送ったが、かなうことはなく、この年の12月23日、肺結核のため死去した。44年の人生だった。
【この記事は、石川芳己氏の「自由民権家・法貴発の研究(1)(2)」、大木辰史氏の「明治二十三年『小選挙区』の激戦」などを参考にしました】