アカデミー賞を取った映画「おくりびと」に、主人公の納棺師が川原で妻に小石を手渡して、失踪した父から教わった石文(いしぶみ)について話すシーンがある。▼作者はこれを、向田邦子のエッセイ「無口な手紙」から採用したそうだ。それによると、人々が文字を知らなかった大昔、ツルツルした石やゴツゴツした石など、表面の感触で自分の状態、気持ちを表し、遠く離れた家族や恋人に人づてに送り伝えたという。▼「現代はしゃべり過ぎの時代。若い人の手紙は、字や文章だけでは男か女かわからない」と向田は評した。インターネットなど全くなかった30年前に。▼と思いきや、今度は漱石の手紙。馴染みの祇園芸者に「君の手紙は候文で堅苦しい。『そうどすえ』と言文一致で書きなさい」と書き送っているのだ(「河内一郎「漱石のマドンナ」)。「男ならちゃらちゃら書くな」。「女だてらにいかめしく書くな」。二人は一見、逆のことを言っているようで、実は同じことを裏返しているように思える。▼インターネットはおろか、電話もろくになかった時代、直筆の手紙は現在とは比ぶべくもない重みを持っていた。行間に目を凝らすことさえ再三だったろう。メールで好きなように何度でもやり取りできる我々は今一度、「石文」した人々のことを思い起こしてもいい。(E)