兵庫県立篠山鳳鳴高校の音楽教諭や声楽家として活躍し、今年100歳を迎えた同県丹波篠山市乾新町の内山茂子さん。彼女が音楽の道に進むきっかけになった1台のピアノがある。内山さんの恩師であり、「日本音楽教育の父」「西洋音楽の伝道師」などと呼ばれた小松耕輔氏(1884―1966)から贈られたものだ。このピアノが縁を結び、このほど出版された小松氏の功績を紹介する漫画に内山さんが登場している。「モコちゃん」のニックネームで昔も今も愛される内山さん。これは1世紀を生きてきたモコちゃんに訪れた奇跡のような物語。
「先生は穏やかで、本当に良い人でした。学生時代は、みんな『お父ちゃん』と呼ぶくらい慕っていて。もちろん本人には言っていませんでしたけどね」―。はっきりとした口調で内山さんが言う。語る内容はいずれも90年近く前の出来事とは思えないほどに鮮やかだ。輝く瞳は、小松氏を前にしたモコちゃんそのものだった。
◆音楽界の礎築く 小松氏の功績
秋田県由利郡玉米村(現・由利本荘市)出身の小松氏。音楽家を目指して上京し、作曲家や音楽教育家、評論家として活躍した。1906年には日本初のオペラ「羽衣」を作曲したほか、音楽をより身近なものにするため、1927年、日本で初めての合唱コンクール「合唱競演大音楽祭」を開催。また、音楽家の活動を支えるため、作曲者組合(現・日本音楽著作権協会「JASRAC」)をつくり、音楽の著作権を得る活動を展開するなど、音楽界の礎を築いた。学習院大学の助教授時代には、当時生徒だった昭和天皇の唱歌を担当したこともある。
◆お金もらわず 胸膜炎を治療
内山さん一家と小松氏の縁は、明治期にまでさかのぼる。当時、東京音楽学校(現・東京藝術大学)の学生だった小松氏が、胸膜炎を患った際、知人を介して東京の病院に勤務していた内山さんの父・昌雄さん(兵庫県丹波市山南町出身)のもとにやってきた。
昌雄さんはお金がなかった小松氏から治療費をもらわずに治療し、一命を取り留める。「貧しい人からお金をもらわないことが父の信念。おかげでうちはいつも貧乏でした」(内山さん)
その後、昌雄さんは丹波篠山市二階町で医院を開業。歌が好きな娘たちのためにオルガンを買おうと考え、東京の小松氏に相談の手紙を送った。すると小松氏は治療のお礼の意味か、1台のピアノをプレゼントしてくれた。ドイツ・オットー社製の名品だった。
◆運命のピアノ 天使のささやき
ピアノが届いた日のことを、内山さんは今も鮮明に覚えている。
「幼稚園から帰ると、土間に立派なピアノがありました。本当に素晴らしい音で、天使のささやきのようでした」
このピアノがモコちゃんの運命を変える。もともと父の跡を継いで医師になろうと思っていたが、ピアノの音色にいざなわれた内山さんは、後に音楽の道に進むことになる。
小松氏は、学校教諭らの講習で丹波篠山を訪れた際には内山家にも寄り、自らピアノを弾いて自身作曲の「電車と汽車」を演奏した。小学3年生だった内山さんは精いっぱい歌ったものの、小松氏はなぜか褒めてくれなかった。「普通、小学生が歌ったら何か言ってくれそうなものなのに。とっても悔しかった。90年も前のことだけれど、今も覚えているのだから余程だったんでしょうね」とほほ笑む。
篠山高等女学校4年生の時、小松氏から「東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)を受けてみないか」と便りが来た。当時、小松氏は音楽科の主任教授を務めていた。郷里から離れることに不安もあったが、身近に小松氏のピアノがあったことに背中を押されて猛勉強。難関を突破した。
学校では小松氏らから薫陶を受け、自宅にも何度も足を運んだ。小松氏はいつも話し相手になってくれたという。
内山さんは戦時下で繰り上げ卒業し、郷里の兵庫県に戻って音楽教師になった。地域での音楽活動も精力的に行い、メゾソプラノ歌手としても活躍した。
小松氏は他界する少し前、内山さんに電話をかけている。「元気にしているか?」という何げない話が最後の会話となった。2人の縁は途切れたかに思えた。
小松氏から贈られたピアノは50年ほど前まで内山さんが愛用し、あまたのメロディーを紡ぎながら、約2000人の教え子たちの教育に用いられ、多くの音楽家も輩出した。近年は使用していなかったが、2016年、内山さんの娘・美世さんが両親や周囲の人々への感謝の気持ちを込め、地元の木下楽器の協力を得て修復し、内山さんの父が営んだ元医院の建物でコンサートを開いた。美世さんはコンサート時、丹波新聞社の取材に、「昔、大好きだった音がよみがえり、私にとっても幸せな時間だった」と笑顔で話していた。
◆縁つなぐ電話 思い出話に花
その後、ピアノは、内山さんと夫・弘成さんが常連となっており、夫婦ともに娘のように思う原未夏さん(53)が営む無料休憩所「みくまり」(魚屋町)に寄贈された。
原さんは小松氏から贈られたものとは聞いていたものの、小松氏の功績を知らなかったという。
ある日、小松氏のことを調べていたところ、氏を記念したコンサートのチラシを目にした。その問い合わせ先に、「小松」という名があった。
「まさか?」と思いつつ問い合わせ先に連絡した。電話口に出たのは小松氏の生家の現当主で、小松耕輔顕彰会会長の小松義典さん(73)=秋田県由利本荘市東由利=だった。義典さんらは、耕輔の功績を伝えるため、今も地元で「由利本荘市民音楽祭」などを開催している。
小松氏の教え子が今も存命であること、小松氏選定のピアノがあることを伝えたところ、義典さんは感激。昨年11月、義典さんは遠路はるばる内山さんのもとを訪ね、思い出話に花を咲かせた。
◆運命の出会い 急きょ漫画に
原さんの1本の電話は奇跡的なタイミングだった。21年度、小松氏が生誕した秋田県由利本荘市は、氏の功績をより多くの人に知ってもらいたいと、公益財団法人「B&G財団」の助成を受け、「マンガふるさとの偉人 小松耕輔物語」(原作・小林義人、漫画・速水ゆかこ)の制作に着手。制作途中で内山さんとピアノの存在が判明し、急きょエピソードを盛り込み、漫画の導入部分に登場することになった。
義典さんは取材に対し、「運命的な出会いだと感じた。もう少し遅かったら、漫画には入れられなかった」と振り返る。
そして、「2人の出会いのきっかけは、内山さんの父が耕輔の命を救ったこと。人間関係が希薄になってきた今だからこそ、余計に機微を感じる」と言い、「話をしながら耕輔との古い記憶をどんどん思い出された。音楽が結んだつながりが記憶にまで影響しており、音楽には計り知れない力があると感じさせてもらうことができた」と喜んだ。
由利本荘市教育委員会も、「内山さんは若いころの小松先生を知る数少ない人物。市としてもこれまで知らなかった新しい先生の姿を教えていただいた。本当に貴重」と話す。
◆「すごいこと」 師の功績知って
師の功績を伝える作品に登場した内山さんは、「すごいこと。先生のことを多くの人に知ってもらうきっかけになれば」と言い、「全ては父のおかげ。父が貧しい人からお金をもらわなかったから小松先生と出会い、ピアノがやってきて、今の私がある。今も2人が見守っていてくれるように感じています」と穏やかな、喜びに満ちた表情を浮かべた。
美しい彫刻と象牙の鍵盤のピアノは、今日も「みくまり」にあり、歳月と思い出をたっぷり含んだ音色を響かせる。原さんは、「高校生や大人も弾きに来られる。今もこのピアノはそれぞれの人の音楽を奏でています」とほほ笑んでいる。
ちなみに、小松氏が胸膜炎になった際、内山さんの父・昌雄さんを紹介したのは、昌雄さんと同郷で丹波市出身の「大西さん」という人だったそう。内山さんは後に小松氏から、友人だった大西さんは、「神田の教育会館に勤めている」と聞いたものの、出会えずじまいとなっており、「この『大西さん』がいたから先生と縁ができたのに、お礼を言えていないのが心残り。心当たりのある方がおられたら教えてほしい」と情報を求めている。
「小松耕輔物語」は、B&G財団のホームページでも読むことができる。