おさん茂兵衛を扱った北原亞以子の小説「誘惑」(本日号に著者インタビュー)は、魅惑的な本だ。恋愛のみならず、商売、立身出世など様々な誘惑に作中の人物がどう向き合っていくか、重層的に描かれる。▼近松でも西鶴でも、これまでの物語は不義密通への過程が偶然に起きたことにしようとして、かなり不自然だった。「でも私は、惚れ合った末に処刑されるのでなくては、可哀そうだと思った」と北原さんは言う。その分、封建制のもとでも自我を備えた活き活きしたおさん像が出来上がった。▼北原版のさらに際立った特徴は、夫の大経師、浜岡権之助に絡む、改暦の話を克明に取り入れている点。その対応にしくじって権之助は失脚するのだが、並行して進むこの話が、リアル感を強めている。▼こちらは純フィクションだが、牢人の夫を仕官させるため健気にも身を犠牲にしようとする、もう一人の美女、あやめを配したのも、物語に一層のふくらみを持たせた。▼そして何よりうれしいのは、「きたったんか」など丹波弁が正確に描かれ、束の間の幸せを味わう二人の丹波での逃避生活に潤いと温かみを与えていること。丹波での出版記念会で、篠山出身の俳優、南条好輝さんがそのくだりを朗読されるのを聴きながら、熱いものがこみ上げるのを禁じ得なかった。(E)