今年で終戦から78年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は竹内一代さん(91)=兵庫県丹波市春日町野村=。
神戸市の宮本小学校に通う6年生だった頃、丹波市内の両親の故郷へ縁故疎開し、市内の小学校に転校した。毎朝、校門近くの天皇陛下の写真に一礼し、手を合わせてから校内に入るのが日課だった。「戦争に批判的な気持ちはなかった。『日本は神の国だから絶対に正しい』と言われ、信じ込んでいた。大人もそう」
小学校時代、一番つらい思いをしたのは、戦死した「英霊」が遺骨として近くの駅へ帰ってくる汽車を、児童一同で出迎えた時。当時の教師の方針で、女子も含めて全員が上半身は裸、下半身は短パン、ブルマという格好で出迎えさせられた。「大勢からじろじろと見られた。けれど『恥ずかしい』『嫌やなあ』とは一言も言えなかった」
体育の授業では、頭巾をかぶって空襲に備えたり、「えいやあ」と長刀を振ったりする訓練があった。荒れ地をムギ畑にするための開墾や、燃料に供出するまきの原木を切り出す作業にも従事した。都会育ちで、力仕事は特に苦痛だった。
その後、小さい頃から憧れていた県立第一高等女学校(現・神戸高校)に入学。1945年6月5日の朝、神戸で大空襲に遭った。焼夷弾は雨のように降り注いできた。近くの山へ必死に逃げ、何とか生き延びた。
空襲後、一面が焼け野原になった。「顔も分からないぐらい、黒焦げになった人が転がっていた。木の根かと思ったら人だった。晴れていたのに、夜みたいに真っ暗になり、黒い雨が降ってきた」と回想する。
「小さい頃からたたき込まれた軍事教育が国全体を戦争に引きずりこんだ。どんなにひどく、苦しい目に遭っても、当然のように受け入れていたし、不平不満を言える時代ではなかった。『戦死は名誉なこと』と特攻隊に志願する人もいた。まるで洗脳。今の北朝鮮も同じかもしれない」