大正11年(1922)、兵庫県丹波市柏原町に「日本自立聖書義塾」と名乗るキリスト教会が誕生した。開いたのは、アメリカ人の宣教師で、ジェッシー・ブラックバーン・ソーントンといった。この時、47歳だった。この聖書義塾を拠点にソーントンは丹波地方一帯で農村伝道に打ち込んだ。ソーントンを慕って各地から集まった塾生たちに聖書を講義したほか、塾生と共にピーナッツ・バターの製造販売にいそしんだ。ソーントンは、著名なキリスト教思想家の内村鑑三から「このような聖霊の人が日本にいることを神に感謝する」とまで言われた宣教師だった。
ソーントンは、米国モンタナ州に牧師の子として生まれた。長じてインドで宣教した後に来日。いったん帰国するが、大正2年に再来日し、神戸を中心に活動した。そのうち六甲山の向こう側に広がる地方に興味を持つようになった。
聖書義塾でソーントンの教えを受けた藤田昌直が書いた著書『丹波に輝くソーントン』によると、「(あの山の向こう側には)キリストの教会があるのだろうか。キリストの福音の伝達はなされているのだろうか―。未知の世界に対する思慕にも似た感情が、ソーントンの心に燃え盛った」と、丹波に思いを寄せた当時のソーントンの気持ちをつづっている。ちなみに同書の著者の藤田は、東京の生まれで大正12年に聖書義塾に入塾。戦後、讃美歌委員会委員長などを務めた人物である。
ソーントンは大正8年、丹波に足を踏み入れ、丹波市氷上町石生に家を得た。次いで柏原に居を移した。大正9年のこと。日本自立聖書義塾の看板を掲げることになった、この柏原の居は、安政5年(1858)に柏原藩の藩校として建てられた崇広館の建物だった。今の県柏原総合庁舎のテニスコートがある所に建っていた。
柏原藩の儒者、小島省斎の進言によって建てられ、省斎も講義をした崇広館は、明治になって氷上郡役所となり、初代氷上郡長を務めた田艇吉が、明治の鐘ヶ坂トンネル工事の陣頭指揮を執った由緒ある建物だった。崇広館時代は平屋だったが、郡役所時代に2階建てになった。郡役所の役目を終えたのちは、柏原町立柏原病院として使われた。
ソーントンは、空き家になっていた旧崇広館の建物を見て、「伝道者の養成機関をつくるのに、ふさわしい場」と直感。旧崇広館を所有していた町役場と交渉し、借り受けることができた。
なぜ町役場はソーントンの申し出を受け入れたのか。推測だが、ソーントンの熱心な伝道ぶりを評価したことが理由として考えられる。丹波にやって来て以来、ソーントンは数人の青年と共に宿泊に必要なものを荷車に載せて町から町へ、村から村へと巡り歩いてキリストの福音を伝えた。野外集会、路傍伝道、家庭集会、個人伝道など、あらゆる方法を用い、ときにはたったひとりの人に語る時もあれば、400人も集まる集会もあった。酔っ払いにからまれることもあったが、ひるむことはなかった。そんなひたむきな姿勢が柏原町を動かしたのかもしれない。
大正10年、ソーントン夫人は、旧崇広館そばの旧制柏原中学校(現柏原高校)で英語を教え始めた。篠山、豊岡の県立中学校でも教えた。日本語が上手で、ソーントンの伝道を大いに助けたという。
3つの特色
日本自立聖書義塾が開校した時の塾生は3人だった。その後、各地から続々と入塾し、塾生たちの労力によって寄宿舎を建てるほどになった。聖書義塾には3つの特色があった。研究、労働、伝道の3つである。
ソーントンは、日本の一般神学生は聖書を十分に理解していないと考え、聖書を学ばせる必要性を感じていた。このため、朝食をすませると、それぞれに自習をさせたのち、2、3時間にわたって聖書について講義した。『丹波に輝くソーントン』の中で藤田は、「ソーントンの講義だけは感動につぐ感動であった。聖書というものはこうして読むのであるかということを学んだ」と書いている。
午前中の研究を終えると、午後は2つ目の特色である労働にいそしんだ。「労働する苦しみを知らずして、どうして良い伝道者になれるだろう」というソーントンの考えに基づき、夕方までみっちり働いた。仕事は、ピーナッツ・バターの製造販売で、日本中から来る注文に応じた。
『ものと人間の文化史154落花生』(前田和美著)によると、アメリカでは、生産される落花生の半分以上がピーナッツ・バターの原料として消費されているというほど愛好されている食品だが、もともとはベジタリアン食品として1800年代の終わり頃に誕生した。それから30年ほど後に海を越えて日本に持ち込まれ、山間の地の丹波で作られた。
東京に日本で最初にピーナッツ・バターを製造した会社「ソントン食品工業」があるが、この社名はソーントンから採ったものだ。京都府宮津市生まれでキリスト教徒だった石川郁二郎が、ピーナッツ・バターの製造販売を通して日本の農民の貧しい栄養状態を改善したいというソーントンの志に感銘し、事業を受け継いだのが同社の起こりだった。
午後の労働を終えると、3つ目の特色である夜の伝道が待っていた。塾生たちはそれぞれ自転車に乗って近くの町や村に出かけ、伝道に務めた。どんなに疲れていても、任命を受けた以上、果たさなければならなかった。戻ってくる時は多くが夜半だった。このほか、夏季伝道もあった。荷車を引きながら、国鉄福知山線沿線や播但線沿線の町や村を訪ね、伝道した。もちろんソーントンの指導に基づいての伝道だった。
内村鑑三が称賛
『代表的日本人』『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』などの著作がある内村鑑三は、ソーントンを高く評価した。たとえば、大正10年11月8日の日記に、ソーントンについて「普通の宣教師とはまったく異なった宣教師である。氏のような宣教師ならば、何人来てもらってもいい。まことに聖霊の人であり、力のある福音の証明者である」と書き、2日後の10日の日記には「一昨日、聞いたソーントン教師の説教が心の底に響いていた」と書いている。
内村によれば、当時のアメリカ人の宣教師は、「商売根性」で「教会員製造に従事」していた。そんな中でソーントンは異色の宣教師だった。
それほどの宣教師だったソーントンは、丹波で伝道していた大正13年にもイギリスに特別講師に招かれるなど多忙を極めた。そして昭和元年(1926)、アメリカに帰ることになった。聖書義塾は、御影聖書学校に移管され、塾生は全員、神戸市の御影に移ったが、聖書義塾は、今の日本イエス・キリスト教団「丹波柏原教会」の礎となった。
丹波にいること6年だったが、残した足跡は大きかった。昭和33年に亡くなった。