東日本大震災の発災から11日で14年を迎えた。発災時、宮城県亘理町立荒浜中学校に勤務し、定年退職後の再任用で今も週1回、同校と関わる塚口誠教諭(63)=同県岩沼市、兵庫県丹波市出身=に同校を案内してもらい、当時の指導で留意したこと、防災教育などを聞いた。
震災から3年後の2014年7月に同じ場所で再建された荒浜中は1階が高床構造。「津波が来る前提で、水を通すため。堤防を造っても越えることがある。想定を超えるのが災害。東日本と同じぐらいの津波が来ても耐えられると聞いている」
1階外部から屋上に避難可能な外部階段、蓄電池付きの太陽光発電パネル、断水時に使えるトイレなど、災害の教訓を生かした設計。災害時、住民の避難場所になる。
当時、100人以上いた生徒が、現在は少ない学年は9人、多くても20人と、被災後の転居に少子化が重なり、新校舎が建つまで間借りしていた町内の逢隈中に統合され、廃校が決まっている。塚口さんは現在、逢隈中で理科を教えている。
学校の周りは再建された新しい家ばかり。コンクリートの基礎が残る、再建されない住宅跡が14年前の津波を今に伝える。
亘理町は仙台空港がある岩沼市の南。震度6弱の揺れが襲い、町の面積(約73平方キロ)の約半分が津波で浸水。町内にいた252人が亡くなり、住宅全壊2568棟など甚大な被害が出た。荒浜中がある荒浜地区は、阿武隈川河口で津波被害が大きく、大半の生徒が自宅を失った。校舎は1階の天井付近まで浸水した。
「3・11」のあの日は午前中に卒業式。在校生は全員避難し、帰宅していた卒業生も奇跡的に全員無事だった。流れてきたソファにつかまり、20時間以上漂う壮絶な経験をした生徒もいた。
◆振り返りより学校生活の充実
校舎を間借りしていた当時のことを聞いた。「震災があったからと、ことさらに何か学校としてそれを話題にして、ということはなかった。日々充実した学校生活を送らせてやりたい。そればかりだった」
作文を書くなど、震災を振り返るようなことは「意識してやらないようにしていた」。自宅を失い、避難所、仮設住宅で不自由な生活。1学年1学級で幼い頃から共に過ごした竹馬の友が数人転校した。みな悲しい思いを抱えていた。
生徒への「心のケア」は年に1、2度、カウンセラーにつなぐくらいで、日常の指導を日々淡々とすることに心を砕いた。教師が定期的にカウンセラーと面談しなくてはいけないことをストレスに感じていた。「そっとしておいてほしかった。必要があれば思い出すけれど、無理に思い出すようなことではない」と思っていた。
避難訓練はするが、地震を正面から取り上げることはしづらかった。3・11メモリアル式典も「大々的という感じではない」。防災学習もケアをしながらで、難しい面があった。津波だけでなく、原発事故で福島県から避難している生徒を気にかける必要もあった。宮城県立高校の入試は、今年度まで地震関連の出題がなかった。
荒浜中の次に赴任した隣町の岩沼西中(岩沼市)は津波が到達しなかった。少し離れた所の視点からの防災学習はしやすかったが、津波を体験した荒浜中の生徒と感じ方が異なるとも感じた。
◆「100点か0点か」避難訓練は大切
1983年5月、秋田大学在学中に秋田県沖を震源とする「日本海中部地震」(秋田県で震度5を観測)を経験。岩沼市の自宅は大雨で床上浸水被害に遭った。東日本大震災は津波到達寸前で校舎2階に駆け上がり、命拾いをした。被災体験から、避難訓練は大切だと強く感じている。生徒に「100点か0点以外ないから。いい加減にやるんじゃないよ」と言って聞かす。
「だいたい良かった、はあり得ない。きちんとできたか、できなかったか。普通のテストとは違う。命を守ることにつながる。過去にあった出来事を想定してする勉強だから」と熱がこもる。
災害は悲しい出来事だが、災害を経験するたびに経験値が上がる。「『あのとき、ああすれば』の後悔もあるが、次への助けになる。経験値としては非常に貴重」と説く。
震災後、各学校にプレハブの災害資材備蓄倉庫が出来た。現在の勤務先は川に近く、津波より川の氾濫の意識を高く持って訓練している。「どういうものが置いてあり、どう使えるようになるかが、私にとって大きい。あっても使えないと意味がない」と、場所に応じ、有事により良い対応ができる備えを心がけている。