旧制柏原中出身の芦田均は昭和15年、斎藤隆夫(兵庫5区)が反軍演説のため議員を除名された際、動議に賛成296、欠席・棄権144に対し7人の反対票の中に敢然と名を連ねた。▼草柳大蔵は「斎藤隆夫かく戦えり」(文藝春秋)で浅沼稲次郎、河上丈太郎ら戦後の革新陣営の旗頭達でさえ賛成に回った中での栄えある反対票と評したが、当時の芦田の動向については触れていない。▼「最後のリベラリスト芦田均」(宮野澄、文藝春秋)によると、斎藤に深く共鳴した芦田は、対立する党の所属にもかかわらず、動議を覆すよう自党の内外に働きかけた。軍部の圧力に屈して政党政治が崩壊することに強い危機感を抱いてのことだった。芦田は代議士になりたての昭和8年、初の国会演説でも、満州政策での軍部の独走を鋭く批判している。▼斎藤除名の後、つるべを落とすように「大政翼賛」体制が成立。しかし、次の選挙に非推薦で立った斎藤は見事トップ当選し、芦田も京都3区で推薦候補ばかりを相手に妨害を受けながら滑り込む。▼芦田の孫、下河邉元春氏の講演録(本紙7月15日号)によると、芦田は子供の頃、相当の悪童だったという。成人後の写真を見ても、ちょっとやそっとでは後にひかぬ利かん気な面構えだ。まことに今、かくたる政治家が欲しい。(E)





















