JR福知山線の脱線事故から1カ月。発生直後から今まで、紙面で多くの人を取り上げた。事故で親族をなくされた人、駅利用者、事故の影響を受けている事業所。あちこちを回って話を聞いた。 犠牲者の家族の方はもちろん、疲れて帰宅する通勤者にも、売り上げ激減で肩を落とす事業所にも、積極的に話したがる人などいない。断られて当然。そう思いながらも「なんとかお願いします」と頭を下げ、記者みんなで事故に翻ろうされる人たちの話を集め、記事として組み上げた。 おそらくこの事故の記事を読んで、楽しくなる読者はいないだろう。それでも紙面を割くのは、未曾有の大惨事が丹波地域に及ぼした悲劇と混乱を伝えるためだ。逆に言えば、この目的を忘れると、記事はニュース報道ではなく悲劇をネタにしたワイドショーになる。 ことの規模に比例して、関連記事の範囲は広がる。膨大な取材の過程で、時に事件の本質とは関係ない出来事までも「ニュース」にしてしまう。今回の事故でもそんな報道に、違和感を感じたことがあった。「旬」を逃すまいという姿勢は絶対必要。しかし、扇情的にならず事実を伝えることもしかりだ。(古西広祐)