戦場からの苛烈な句を遺して死んでいった片山桃史(春日町出身)について、「片山桃史集」をまとめた宇多喜代子さんから聴いた。▼「兵われは靴カツカツと甲板に」「われは兵若き朝日子わが額に」「兵われは星座を語る下士の辺に」。戦地に送られたばかりの頃の句は「やってやるぞ」という高揚感に満ちているが、師の日野草城は「案外実質的内容的でなく、虚を示す」と的確に評している。▼「我を撃つ敵と劫(ごう)暑を倶にせる」。桃史の人間性をしのばせる句だが、「なにもない枯野にいくつかの眼玉」、「飢餓うすれ陽炎重く眠りたる」「頭あり我あり発射弾快調」「屍らに天の喇叭が鳴りやまず」などは、桃史自身が句友への手紙に書いている「言葉が宙に浮き、体験と少しもつり合わない」状態になって発した句だろう。▼春秋子が感銘を受けたのは、同じ手紙に「戦争の前に手が縮んでしまったが、僕の唯一の満足は、縮み上がったのが俳句であって、僕の肝玉でなかったことだ」とある点だ。▼桃史の軍隊手帳には、几帳面な文字で俳句のことばかり書き並べてあった。20歳以上年下ながら「お母さんのような気持ち」になっていた宇多さんは、桃史宛てのラブレターを発見した時、ほっとしたという。ジャングルの露と消えた桃史は、誠に大和男児だった。(E)