「雨が降る戀をうちあけようと思ふ」「雨はよし想出(おもいで)の女みな横顔」。繊細で、洗練された俳句を作っていた青年がいた。大正元年、春日町黒井に生まれた片山桃史(とうし)だ。旧制柏原中学校を卒業後、大阪の銀行に就職し、革新的な俳句を作ることに情熱を注いだ。▼25歳で出征。戦場でつむぎ出した句は、先の句とは大きな異なる。「雷電と血の兵が這ひゐたる壕」。戦場のおぞましさがストレートに伝わり、胸に迫る。「飢え極み月光深き谿(たに)に射す」。戦場での句には「食う」ことに関するものが多く、どれほど飢えていたかが察せられる。▼昭和22年、「東部ニューギニアで戦死した」との公報が届く。マラリアにかかり、どこかに置き去りにされたらしい。桃史が参加していた俳誌「旗艦」の代表、日野草城は「桃史死ぬ勿(なか)れ俳句は出来ずともよし」と願ったが、かなわなかった。▼戦場で句を作った桃史だが、戦争という巨大な全体を俳句という形式に収容するのは不可能であることを、知人への書簡にしたためていたという。なぜ不可能なのか。▼「狂気は個人にあっては稀有なことである。しかし、集団、党派、民族、時代にあっては通例である」(ニーチェ)。なかでも戦争は、最大の狂気だ。桃史をしても捉えきれなかったのは、それゆえだろう。(Y)