「バカの壁」の著者で知られる解剖学者の養老孟司氏は、4歳の誕生日を前に父親を亡くした。結核だった。最期の日、養老氏は真夜中に起こされ、父親のベッドのそばに立った。背後から「お父さんにサヨナラを言いなさい」との声がした。▼しかし、子どもの養老氏は声が出なかった。別れの挨拶ができぬまま父親は血を吐き、息を引き取った。その後、30数年、養老氏はまともに人に挨拶できずにいた。挨拶できない理由に気づいたのは、不惑に近づいたころ。地下鉄の中だった。▼「他人に挨拶をしない限りは、父はいつも私にとっては生きていたのである」。だから挨拶を拒むようになった、と。そんな自分の心に気づいたとき、父親の死が真に迫り、地下鉄の中で涙がとめどなく流れたという。▼作家の井上靖氏が父親を亡くしたのは52歳のときだった。「父親が亡くなりましたら、ぱあっと自分の目の前が開けてきた。死というものが初めて見えてきた。親父が亡くなった、次は自分が死ぬ番だなという気がした」。▼井上氏にとって父親は、死から自分をかばってくれる衝立だった。父親という存在には、そんな役目があるという。だとすれば、養老氏の涙は、死んでいながら長く衝立を果たしてくれた父親への痛切な哀惜かもしれない。きょうは「父の日」。 (Y)