「おすぎ」生涯に迫る 一揆で家族が離散 三田の小谷良道さん・「丹波のおすぎ」出版

2014.12.14
ニュース丹波市

自費出版した自著を手にする小谷さん=丹波新聞社で

丹波の坂と峠を研究している小谷良道さん (兵庫県三田市) が、 「丹波のおすぎ―峠のお地蔵さんからたどる江戸中期の秘話」 を自費出版した(丹波新聞社印刷)。 青垣町大稗に伝わる民話 「お杉地蔵」 のモデルとなった 「おすぎ」 の生涯を資料と関係者への聞き取りから追った。 「孝行を果たせず雪の中で息絶えた少女」 との民話と異なり、 村人を悪徳役人から守ろうと越訴した夫が追われる身となり、 家族離れ離れになり、 故郷で生涯を閉じたという仮説を綴っている。

峠の研究で大稗付近を歩いている際、 お杉がまつられている杉ケタワと道続きの界坂峠 (朝来市と大稗の境界) にまつられた地蔵にもよく似た話があり、 興味を持った。

大稗には、 資料が乏しく、 おすぎが嫁いだ朝来市での調査が中心になった。 おすぎの夫は、 1746年に但馬で起こった 「延享一揆」 で惣代を務め、 勝訴した与布土 (朝来市) の庄屋、 木村勝右衛門。 生野代官所の不正を暴くのに成功したものの、 代官所が報復に出たことから、 一家は逃避行を余儀なくされた。

小谷さんが勝右衛門をかくまった家の現在の当主から聞き取ったところ、 おすぎ夫婦は三男四女の7人の子どもと、 おすぎの故郷大稗村へ向かった。 その途中で、 乳飲み子だった末の女の子が亡くなった。 界坂峠にまつられた地蔵がこの四女。 当主によると、 大稗にはおすぎだけが残り、 家族はさらに南へ逃げ、 おすぎは故郷で亡くなったと同家に伝わっているという。

小谷さんは、 夫を逃した 「共犯」 が村にいることが知られ、 害が及ばないようにと当時の村人は考え、 おすぎは表だっては埋葬されず、 かつて墓地だった杉ケタワにひっそり葬られたとし、 「お杉地蔵」 は、 「おすぎの墓標」 と見ている。 おすぎの記録が大稗に残っていない理由、 史実ではない 「言い伝え」 が伝わった事情も一揆が関係していると推察している。

おすぎゆかりの場所の写真、 年表、 家系図などを掲載。 小谷さんは 「地蔵などわずかな現物と紙の資料、 証言を組み合わせた。 推定している部分もあり、 どこまで真相に迫れているかは分からない。 論拠を持った反論を歓迎する」 と話している。

かいばら観光案内所、 飛鳥書房春日店、 足立仁さん (青垣町大稗) 宅で販売中。 950円。

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