戦地の体験を滅多に話さなかった亡父が最晩年に1度だけ、ノモンハンに動員された時の回想をコラムに書いた。「貨車の駅から現地まで行軍中、せめて腹一杯ぜんざいを食べてから死にたいと思った」。
1939年5月から9月にかけ、満州とモンゴルの国境付近で日ソ両軍が衝突。短足の父は、200キロの草原、砂漠の道を40キロ以上の背嚢や銃、銃弾を担いで、隊列から遅れ遅れしながらトコトコついて行った。
最終末期に近く関東軍が満州全域から援軍をかき集めた頃らしく、直接戦闘に巻き込まれなかったのは幸運だったが、神の指す手が一つ異なっておれば、どうなったか。
兵士らは敢闘したが戦死傷者1万8千人、停戦協議ではモンゴル、ソ連の主張していた国境線をほぼ呑まざるを得ず、何のための徒労だったかという結果に終わった。しかし政府、軍は敗戦を認めたくなかったのか、戦争でなく「事件」と呼び、今もその名が通っている。
半藤一利は中国戦線で泥沼に陥っていた当時の軍の状況について、陸海軍の確執、陸軍内でも参謀本部と関東軍など現地との反目、また敵の戦力を冷静に見通す能力の欠如などを挙げ、それらが何も学ばれずに太平洋戦争にそっくり持ち込まれたと指摘する(「ノモンハンの夏」)。その夏から間もなく80年目がやって来る。(E)