光秀の母に迫る(上) 「はりつけは創作」根拠は? ”フェイク”信じた可能性

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後世の創作「絵本太閤記」に描かれている光秀の母がはりつけにされている場面(国立国会図書館所蔵)

2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公となる戦国武将の明智光秀が脚光を浴びている中、光秀の「丹波攻め」で平定された兵庫・丹波地域でも大河を生かしたPR策が展開されている。兵庫県丹波篠山市では、光秀と地元の波多野氏が激突した八上城での戦いで、光秀の母、「牧(於牧、お牧の方とも)」がはりつけにされて殺されたという悲劇の伝承を逆手に取り、光秀の人生で大きな転換点となる地ではないかという視点でPRを進めている。そこで気になるのが、この牧とはどういった人物だったのか。そして、現在では史実ではないとされている伝承だが、何をもって否定されているのか。各種史料から可能な限り迫った。上下2回にわたって掲載する。

 

◆地元に伝わる内容は

「はりつけ」に関するエピソードは、八上城内に「はりつけ松」があったとされる丹波篠山市や、牧のものとされる墓所がある岐阜県恵那市などに伝わっている。

恵那市明智町にある墓所は、江戸時代の寛保3年(1743)の建立とされる。この墓所の前に、牧の最期を記した看板が建てられている。

「織田信長の命を受けた光秀の丹波攻めで、八上城の波多野氏は1年以上も籠城を続けた。天正7年(1579)、追い詰められた城主の波多野秀治は、『開城を迫るのならば、一族の保障と、光秀殿の母御を差し出されよ』と申し出る」

「牧は『和平のためならば』と断腸の思いの光秀を励ましつつ、八上城に入った。降伏した波多野氏は恭順の礼を尽くすため安土城に向かうも、信長は即刻、切腹を命じた。このことを知った八上城では、兵たちが牧を十字架にかけてはりつけにした。光秀は、『いかに君主といえども、母の仇は不倶戴天の仇』」

今回の大河では演歌歌手の石川さゆりさんが母を演じるが、1996年の大河ドラマ「秀吉」では、女優の野際陽子さんが演じた。八上城ではりつけにされるシーンもあり、壮絶な最期は高い視聴率を呼んだ。

秀治が開いたとされる誓願寺に伝わる絵図。光秀の母らしき人物がはりつけにされている。

 

◆同時代の史料に記述なし

この事件が、光秀が信長を恨むきっかけになり、「本能寺の変」につながったとされてきたが、現在、「後世の創作」として否定されている。

歴史を探るうえで最重要となる当時の手紙や日記などの「一次史料」に、一切書かれていないからだ。

波多野秀治らが降伏し、殺されたことは公家の日記「兼見卿記」などに記されているが、光秀側から人質を出していたという記述さえどこにも見られない。

史料的価値が比較的高いとされる「信長公記」にも記されていない。

 

◆後世の創作広まる

このエピソードが登場するのは、後の時代に書かれた「二次史料」で、光秀が落命してから約100年後となる江戸時代の1685年(貞亭2)に完成したとされる「総見記」。作者の遠山信春が同じく二次史料の「信長記」を参考にしてつくったものと伝わる。

総見記は同時代の史料でないことや物語的な要素があること、史実と異なる部分が多くみられるなど史料的価値は低い。

しかし、母を人質に出したという話は、「川角太閤記」や「絵本太閤記」などの書物にも転用され、広く世間に浸透したよう。同じく江戸時代に成立し、波多野氏の旧臣が波多野氏の興亡史をまとめた「籾井家日記」にも記述がある。

現在でいう小説やフェイクニュースがいつしか”史実”と信じられた可能性もある。

歴史学者の高柳光寿氏は、昭和33年(1958)に発行した「明智光秀」の中で、一次史料に記述がないことや総見記の史料的価値の低さなどから、当時すでに「話としてはおもしろいけれど事実ではない」と否定し、「(別の史料で)光秀が調略をもって波多野兄弟3人を召し捕ったとある。この調略というのが母を人質にしたということに解釈される恐れがある」と指摘している。

また、「(八上城側が)万策つき、波多野兄弟三人を召し捕って光秀方に出した~中略~これが本当であろう」としている。

光秀の母に迫る(下) 「はりつけ」謀反の原因探し創作? 名の出典は不明

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