ふとした拍子に思い出す故人がいる。その一人が、『丹波の荘園』『丹波史を探る』などの著者で郷土史家の第一人者だった細見末雄氏だ。先生は植物についても明るかった。取材で接するたび、該博な知識や求道者のような学究的態度に敬服した。
加えて、振る舞いに品があった。明治41年生まれの先生なので、親しくしていただいたのは晩年だったが、ご自宅にお邪魔すると、いつも着流し姿だった。余計なことはしゃべらない。偉ぶらず、淡々とされていた。今思い出しても、美しい老人だった。
古典研究家でもある白洲正子は、「本来ならば、人間は老人になればなる程美しくなっていい筈です」と書いた。「老」は「なれる」とも「ねれる」とも読むらしい。その字義に従うと、年を重ねれば、それ相応に熟した味わいがにじみ出ていいはず、というわけだ。
人物学の権威、安岡正篤によると、煎茶は第一煎で甘みを味わい、第二煎で苦味、そして第三煎で渋みを味わうのだという。人間もそうあるべきで、甘みのある青少年時代、苦味の出る壮年時代を経て、最後の老年は渋味の域に達していなくてはならないと説いた。
細見先生はまさに渋味を感じさせる人物だった。ひるがえって自分はそんな老人になれるのか。「敬老の日」を前に、自分に問うてみたが…。(Y)