天正年間、織田信長の命を受けた明智光秀によって行われた丹波国平定戦「丹波攻め」。兵庫県丹波市山南町には、いわれがはっきりわからない五輪塔などの墓数十基と、市指定文化財の道祖神があり、このうち五輪塔などについて、「1579年(天正7)にあった光秀の丹波攻略戦で命を落とした人たちの墓ではないか」と見る地域住民もいる。
地域住民「村人が供養した?」
同市山南町の応地自治会内で、岩尾城に向かう山道にある。墓は、高さ約30―45センチの五輪塔が10基、仏が彫られた石仏が2基、何も彫られていない石墓が1基ある。
同城は、信濃国南和田から来た和田日向守斉頼が、1516年(永正13)に築城。1579年(天正7)に光秀の丹波攻めで滅び、1586年(天正14)に修復。1596年(慶長元)に秀吉の命により廃城となった。現在も石垣や曲輪跡、堀切り、土塁などが残る。
同地区老人会長で、歴史に詳しい梅田章さん(76)が近くの寺の墓を調べたところ、戦国時代ごろのものは五輪塔の形をしていたが、江戸時代初めごろには四角い形になっていたことから、応地の五輪塔も岩尾城があった時代のものではないかと考えた。
かつて村の有識者から「かわいそうな大きな戦があった」と聞いていたことからさらに想像を膨らませ、「五輪塔は岩尾城の兵、石仏は女性か子ども、普通の石墓は明智の兵のものでは。岩尾城勢に同情した応地地区の村人が差をつけて供養したのでは」と話す。
同市出身の郷土史家・松井拳堂の「丹波史年表」には、「1579年5月、堀秀政、筒井順慶も来攻し、和田城主和田師季戦死」とある。梅田さんは言い伝えで、「堀と筒井が2手に分かれて和田村と応地村から攻め登った」とも聞いているという。応地地区内には、馬のつなぎ場だったという場所や、明智軍が水を飲んだという井戸もある。
また、道祖神は、道の守護神としてつくられた石像で、県内で文化財に指定されいるものは珍しいという。男神と女神が並んで座って彫られており、石のほこらに納められている。道祖神は信州に多いことから、岩尾城を築いた信濃国出身の和田日向守斉頼との関連が推測されている。
梅田さんは、「道祖神は、岩尾城から信濃への往来の道中の安全を祈り、道しるべにしたものだろう。大河ドラマにからんで、岩尾城落城時の歴史が掘り起こされれば」と期待している。