1月から戦国武将・明智光秀を主人公に、群雄割拠の乱世を描いたNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の放映がはじまる。織田信長の命により、2度にわたって兵庫・京都にまたがる旧丹波国に対して、「丹波攻め」を行った光秀。兵庫県丹波市在住のイラストレーター・漫画家の中川英明さんに、「丹波攻め」をマンガにしてもらいました。
むかーしむかし、戦国の世の丹波で、今年の大河ドラマの主人公・明智光秀と、丹波の武将たちとのはげしい戦いがあったそうな。
天下統一をねらう戦国武将、織田信長。筆頭家臣の明智光秀に「丹波を攻めよ」と命令したんじゃ。天正3年(1575)10月、光秀軍は氷上郡(現・丹波市)の赤井(荻野)直正の黒井城へと攻め込んでいったらしい。
さすがに強い光秀軍。落城近しとみられたが、翌年1月、思いがけないことが起こった。八上城の波多野秀治がとつぜん光秀をうらぎったのじゃ!あわてた光秀は、命からがら逃げかえったそうな。
天正5年(1577)、光秀はふたたび丹波攻めを始めたんじゃ。
光秀は、黒井城と八上城の分断作戦もしっかり立てておった。郡境に金山城を築き、連携できないように見張ったんじゃ。
そんな中、黒井城の直正は、天正6年に病気で死んでしもうた。
光 秀は、多紀郡内の城をつぎつぎと攻め落とし、天正6年(1578)3月、八上城を包囲したんじゃと。 天正7年(1579)6月、ついに秀治ら3兄弟はとらえられたそうな。
八上城ではこの戦で何百人もの餓死者が出たそうじゃ。
直正という大将を失った黒井城は、天正7年8月に落城したそうな。
こうして丹波平定を果たした光秀を、信長はたいそうほめたらしい。
しかし、わずか3年後に本能寺の変は起こっておる。光秀がなぜ信長を討ったのかは、今も謎のままなんじゃ。(年号は丹波市教育委員会資料をもとにしました)