「今、幸せ。でも」 福島からの避難者 思い語ると「風評かも」 それでも伝えたい感謝【#あれから私は】

2021.03.08
地域

福島の地元新聞に目を落とす松尾さん=2021年3月1日午後3時10分、兵庫県内で

東日本大震災の発生から11日で10年を迎える。「節目」という言葉が使われることもあるが、福島第一原発事故の影響で9年前に福島市から兵庫県に避難移住した松尾誠さん(40歳、仮名)は、「節目という言葉に違和感がある。『原発事故は今も続いている』。でも、こう言うと福島で暮らす人にとっては、『風評』ととられかねない。年々、思いを話すのが難しくなりました」と複雑な心境を吐露する。それでも取材に応じたのは、故郷から遠く離れた土地で温かく迎えてくれた人たちに思いを告げたいから。「本当に兵庫に来てよかった。10年目に思うことは地元のみなさんへの感謝です」とほほ笑む。

朗らかに笑い、冗談も大好き。だが、震災の話題になると表情が曇る。

「もう二度と家族に会えないかもしれない。本気でそう思いましたね」

郷里から届いた地元新聞に目を落としながら松尾さんがつぶやいた。脳裏には10年前の光景がよみがえる。

◆知らされず

2011年3月11日、福島市。今にも雪が降りそうなグレーの空が震えた。停電、断水。緊急地震速報のアラームは、余震で鳴りっぱなしだった。12日には原発で水素爆発が発生する。

幸い妻と幼い息子は無事だった。訳が分からないまま始まった被災生活。何度も仕事や水をもらいに外に出た。当時、まちに放射能が降っていたとは知らされていなかった。

ちょうど引っ越しを予定しており、13日、市内の別の地区に移った。原発から約60キロ離れた場所だが、放射線量が高い「ホットスポット」があると分かる。貸し出された線量計を使い、試しに自宅前で測定してみたところ、メーターの針が振り切れた。

「あ、ここにいたら死ぬ」

家族を守るため、仕事があった松尾さんは福島に残り、妻と長男は妻の実家がある岩手へ避難した。最愛の家族との別れ際、今生の別れになるかもしれないと感じたという。

◆悩んだ末の移住

わずかな一時金は支給されたものの、二重生活の交通費などで1年もたたずになくなった。

家族3人で安心して暮らす。そんな当たり前をかなえるため、悩んだ末、福島から距離を取ることを決意。仕事を辞め、同じ県内で暮らす両親にも了承を得て、1年後の12年4月、たまたま知人を介して知った兵庫県内のまちへ家族で避難移住した。

ゆかりもなく、知り合いもほとんどいない土地だったが、とにかく遠くへと、「勢い」で足を向けた。それくらい切羽詰まっていた。

仕事を得ることもでき、新しい生活が始まった。当時、避難した先でいじめに遭う福島の子がいるという報道を知って心配していたものの、移住してすぐ、息子が近所の子どもと遊んでいた。その後も友だちと元気に成長し、はや中学生になった。

「このまちの良さは人に尽きる。行政からは避難者の家賃補助をしてもらった。本当に助けてもらいました」

◆まだ避難してるの

え、まだ避難してるの―。

10年がたち、郷里からそんな言葉を間接的に聞いたことがある。避難していた人たちの中にも福島に戻る人が出ている。

しかし、「まだまだ線量が高いところがあるし、除染が済んでいないところもある。何より原発の廃炉作業はいまだ途中で、今年2月の地震でも格納容器の水位が低下した。水を入れて冷やし続けないと、また爆発するかもしれない。怖くて戻れません」と話す。

一方で、そこに生きている人がいる。「当時、自分たちは30代。動きやすかったから避難できたけれど、動けなかった人もいる。もちろん、なんともないと思った人もいる。そんな人たちが、自分が言っていることを聞いたらと思うと。こういうことを話すとき、いつも頭のどこかに悲しい顔が浮かびます」

復興、原発、風評、避難、風化―。さまざまな問題が絡み合い、どの言葉も安直に言えない状況は、時間がたつにつれ、より鮮明になっている。

「自分は今、幸せです。でも、いつも心に引っ掛かりがある」

◆「自主避難者」

松尾さんが暮らした福島市の地域は、国の避難区域には指定されなかった。そのため自主的に避難した松尾さん一家は、国の「避難者」の数に入っていない。あくまで「自主避難者」だ。

「避難する権利」を勝ち取ることや事故の責任を明確にするため、松尾さんは東京電力や国を相手にした集団訴訟の原告に名を連ねている。

「裁判結果に一喜一憂したくなかったし、振り回されたくない思いで、最初は原告にならなかった。けれど、これからも災害は絶対に起きる。どこかが第二の福島になるかもしれない。そのためにも、あの時、何が起きたのか。津波は予見できなかったのか。裁判を通してはっきりさせないと、何もなかったことになってしまう。将来のために、これだけはやっておきたい」

冗談交じりに「ひっそりと暮らしたい」という人が、真剣な面持ちで言った。

◆親の将来考え

5年前、松尾さんは記者に言っていた。

「なくしたものや手放したもの、手に入るはずだったもの。そればかり考えてきたけれど、5年たってやっと、ここで得られたもののことを思えるようになった」

今、改めて心境を問う。

「自分の将来、そして、遠く離れたところで暮らす親や実家の将来を考える日々。どうしたものか」

そして、「ただ、家族で暮らす当たり前の大切さは、今もずっとかみしめています。これも当たり前ですけど、妻と一緒に子どもが一人前に育つのを見守るのが最優先です。当たり前ですけどね」と笑った。

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