出征の兄2人、どちらも戻らず 「絶対に戦争は…」 戦後76年―語り継ぐ戦争の記憶

2021.08.21
地域

正義さんが入隊前に書いた日記などを前に兄2人の思い出を話す松木さん=2021年7月30日午後3時44分、兵庫県丹波篠山市住山で

終戦から76年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は松木克己さん(91)=兵庫県丹波篠山市住山。

「毎年、お盆になったら思い出す。優しい兄貴たちだった」

兄2人、姉2人の5人きょうだい。松木さんが12歳の時、9つ上の長兄、正義(まさよし)さんが同県姫路市の砲兵部隊に入隊。篠山の古市駅まで送りに行ったことを覚えている。1年後、姫路まで面会に行ったが、それが正義さんとの永遠の別れになるとは思わなかった。

正義さんは姫路の後、旧満州の佳木斯市、台湾、ルソン島(フィリピン)へと転戦。1945年5月に同島の激戦地・サンタフェで戦死した。松木さんは「私が2歳の時に母親が亡くなったので、母親代わりに優しくしてくれた兄。遺骨が届かず無念」と話す。

また13歳の時には、7つ上の次兄、忠良さんが出兵し、ビルマのインパール作戦で戦死した。正義さんが亡くなる1カ月前だった。「じゃこ捕りの名人で、近くの子どもを集めてはじゃこ捕りをしていたことを思い出す。兄のどちらかが帰って来ると思っていたが、2人とも戻らなかった。兄たちをかわいがり、毎日、お宮さんに参っては帰りを待っていた祖母は、2人が帰らないと分かってか、すぐに亡くなった」

松木さんは13歳から1年半、神鋼兵器工業明石工場で砲弾製造に従事。空襲警報が鳴れば布団で身をおおう。製造は24時間体制で夜から朝にかけての勤務もあった。「大倉山から敵機めがけて高射砲を撃つ様子が見られたが、全然当たらなかった。死体をトラックで運ぶ光景も思い出す」

松木さんは25歳で結婚。2人の娘と、ひ孫5人に恵まれた。「兄貴たちのおかげ」と感謝し、「ひ孫たちには兵隊に行かせたくない。絶対に戦争はしてはいけない」。

「兄貴(正義さん)の遺骨が戻らなかったのが無念。杖を突いてでも歩けるうちにルソン島に行って、住山の水を供えて、現地の砂や石でも持ち帰りたい」

関連記事