北朝鮮拉致被害者の蓮池薫さん(新潟産業大学経済学部准教授)が登壇した兵庫県丹波市の人権講演会がこのほど、同市の丹波の森公苑で開かれた。3回にわたり要旨を掲載する。
◆「拉致とは言うな」
1994年に金日成主席がこの世を去り、北朝鮮社会は混乱に陥った。経済はますます困難になり、90年代後半には大飢饉が起こり、本当にひどかった。こういう状況で、金正日委員長が国を立て直そうと、2002年、日本との国交正常化交渉につながった。
02年9月、小泉純一郎首相が平壌を訪問した。われわれがそれを知らされたのは半年前の3月のことだ。幹部がやってきて、「これからは日本との関係を改善していく。そのために君たちも一役買え」と言い、「日本から大旅団が来る。平壌で幸せに暮らしているとアピールしろ。最終的には日本から家族が来るから、孫にも会わせ、幸せぶりをアピールしろ」と話した。さらには「拉致されてきたと言われては困る。救われてきたことにしろ」と言ってきた。
長いシナリオが出てきた。われわれは海に行って拉致されたのではなく、「海にあったモーターボートを拝借して、彼女と沖に向かって走ったところ、エンストを起こして漂流を始めた。脱水症状で死にかけたところ、北朝鮮の工作船がわれわれを見つけて救い出した。そのまま北朝鮮の病院に運び込み、九死に一生を得てよみがえった。こんな温かい人たちの中で一生暮らしたい、ぜひここに住まわせてくれと自分たちから懇願して残った」―。とんでもない話だったが、これを言わなければ、何をされるか分からない。毎日覚える日が続いた。
◆日本列島に息詰まる
日朝会談の翌日、私たちはあるホテルで待たされていた。夕方、日本の外務省の人が来て、前日の会談の様子を教えてくれた。金正日委員長が拉致を認め、「私は知らなかった。下が勝手にやった。やった責任者を処罰した、と言った」と伝えてくれた。
ただ、外務省にとっては、本当に私が拉致被害者の蓮池薫かどうか分からない。確認の意味を込めて会いに来たと言っていた。2週間後、日本から調査団が来て、われわれと面談をした。本人かどうか、詳しく聞かれた。例えば、小学校の同級生の名前を書いてほしいと言われたり、(日本の)家にはどこに何の木があるのか地図を書いたりした。親しか知らないような話はないかと言われたり、小学校1年生の時の交通事故で足にできた傷跡を見せたりした。
調査団が来るぎりぎりまで「拉致じゃない。救われて北朝鮮に来た」と話すことになっていた。しかし、金正日委員長が拉致を認めたことで、この話をする必要がなくなっていた。北朝鮮もバタバタしたのだろう、調査団に会う直前、「救われてきたという話はなしだ。拉致を認めていい」と言われ、うそをつかずに済んだ。
10月になり、家族が来るかと思っていたが、幹部がやってきて、「家族は来ない。代わりにお前たちが行ってこい」と言った。これには驚いた。北朝鮮がわれわれを返すわけがないと思っていた。ただ、「子どもは人質に置いておく。家族には『幸せに暮らしています、安心してくれ』と話してこい」と言われた。
10月15日、日本のチャーター便に乗ったが、まだ実感が湧かなかった。飛行機の窓から外を見ていて、地面が動き出し、しばらくして平壌の地を浮き立った。「飛んだぞ」―。さらに、海を経由して、突然、緑色の列島が見えてきた。これは日本に間違いない。息が詰まるような思いだった。
羽田に着いて家族に会った。夢のようだった。しかし、頭の片隅には、「家族は(日本に)残れと言うだろうな」と思っていた。子どもは平壌にいるし、帰らなければならない。そんな思いが、ぐるぐる回っていた。
◆帰国できた、でも…
家族にはうそもついた。「子どもを連れて、もう1度来るから。その時は一緒に暮らそう」と。ただ、徐々に考えが変わっていった。北朝鮮は、怖くて強い国で、立場を変えない国だと思っていたが、拉致を認め、謝罪をした。これは日本に来て初めて知ったことだ。さらに、今回返した者たちの今後は、本人の意思に任せると言っていたと聞いた。これはうそではあるが、このようなことを言わなければならないような状況になっているということだ。北朝鮮は早く拉致問題を進め、国交を結んで過去の清算をしようと考えているようだと思った。
最終的に、(日本に)残ろうと思った。妻に言うと「ばか言ってんじゃないわよ。(北朝鮮に)子どもがいるのに何を考えているの」と言われた。妻も北朝鮮に帰りたいわけじゃない。妻の母は入院していたが、子どものことを考えると―ということだった。私は一生懸命に話して、残ることにした。
ところが、事態は進まなかった。いまさら(北朝鮮に)戻るわけにはいかなかった。1年ぐらい待つと、ものすごく神経的に参ってしまった。親に弱音を吐くと、母親は「たった1年だろう。私は20何年も待った。もう少し待てないのか」―。
小泉首相の2度目の訪朝後、子どもたちが帰って来た。しかし、子どもたちだけだった。心ではうれしいけれど、非常に複雑な思いだった。今も帰ってきていない人がいるという現実を抱えて暮らしている。
◆家族も「限界」
今、北朝鮮に残されている人たちは、われわれが24年間、帰国を待っていた以上に、つらい思いをしている。私たちは24年間、最後の方は諦めていた。「もう帰れない。ここで生きていくしかない」―。そういう思いでいたところ、突然、帰国できた。残された人は、われわれが今から19年前に帰国した事実を、おそらくリアルタイムで知ったと思う。こんな大きな出来事は、いくら情報統制しても知られる。「帰れないと思って暮らしてきたのに、帰った人がいるんだ」―。この時のつらさは計り知れない。しかも、自分たちは亡くなったことになっている。これはどんな恐怖感、不安感を抱かせるのだろうか。
こういう状況で、もうすぐ20年がたとうとしている。精神的には限界をはるかに超えている。日本の家族も限界を超えている状況にある。何とかして国に動いてほしい。そのためにも、皆さんにも関心を持っていただきたい。