その人の中に残る大切な記憶は宝物。どんな体験をしてこられたのか、その経験はどのような信念や価値観を形作っているのかを知ることができる。
誰でも自分が生きてきた歴史があり、それぞれの時代を振り返って懐かしい思いに浸ることがある。数十年間の時代の流れの中で、喜びや悲しみ、つらさを感じてきたことが、その人らしさを形成する大切な要素になっている。
認知症の人は、短期的な記憶があやふやになる一方、昔の出来事の記憶や感情は残っている。その人の中に残る大切な記憶は宝物だ。どんな体験をしてこられたのか、その経験はどのような信念や価値観を形作っているのかを知ることができる。
例えば、家族や介護者の理解できない行動でも、その人の生活史や価値観を知ることで、行動を理解できる。ある男性は、介護サービスを利用すると、その施設の机やいすを運び、並べたり積み上げたりして、落ち着かない行動が目立った。
家族に今までの生活史を尋ねてみると、婿養子に入り、長らく木工所に勤めて、愚痴を言わず黙々と働く人であったことが分かった。
施設のスタッフにこの話を伝えてみんなで考えてみた。机やいすを一人黙々と運ぶ行為は、木工所で作業をする姿だと気付いた。長年続けてきた仕事を、黙々と成し遂げようとするこの人らしい姿だと。
それなら、この行動をやめさせようとするのではなく、「お手伝いしましょう」と一緒に運んでみる。「休憩時間ですよ、一服しましょうか」と誘うことを学んだ。
子育てや家事、農作業に生きがいを感じていたころ、その忙しさの中にふっと幸せを感じた出来事は、認知症の人にとってありありとよみがえってきて瞳が輝く時がある。
そんな話をしっかり聞くことは、本人と介護する人の心のつながりを強くする。家族には、同じ話を何度も聞かされる、と忍耐のいることもあるが、関係づくりには欠かせない方法だ。
専門職のケアでは、生きてきた時代と生き方を知り、一人ひとりの価値観を大切にすることが基本。日ごろから、懐かしいアルバムや生活用具、歌などを使って、思い出を語ってもらう回想法を取り入れてみては。
寺本秀代(てらもと・ひでよ) 精神保健福祉士、兵庫県丹波篠山市もの忘れ相談センター嘱託職員。丹波認知症疾患医療センターに約20年間勤務。同センターでは2000人以上から相談を受けてきた。