米寿も尽きぬ創作意欲
趣味で作詞を続け、およそ65年。世に出回っていないものも含めると、その数50曲以上。丹波篠山市の旧多紀町に伝わる「多紀町音頭」も作詞し、昭和を代表する演歌歌手の村田英雄に歌われた。「作詞は生きがい」と顔をほころばせる。
10代の頃から「好きな歌詞をメモし、田んぼや山に行けば、すきすっぽうにわめいていた」というほどの歌好き。歌手にはなれないが、「文句を作るぐらいならできるのでは」と思い立ち、20歳の頃、作詞を始めた。
同市内で金網作りや酒造り、造園などの仕事に従事しながら、「有名な歌手に歌ってもらいたい」と、歌詞を募る懸賞への応募に熱意を燃やした。歌詞を研究する「歌謡研究会」にも入会し、作詞家同士で切磋琢磨した。
1967年には、旧多紀町が募っていた「多紀町音頭」の歌詞が入選。当時の同町職員の尽力で、村田さんのレコーディングが実現した。村田さんの歌声を聞いた中野さんは、「びっくり。まさか、という気持ちだった」と回顧する。
農業雑誌の懸賞で最上位となった曲「若いグー・チョキ・パー」は、フォークソングデュオ「トワ・エ・モア」に歌われた。日置小学校の校歌も作詞。デカンショ節大賞も2度受賞した。
「歌い始めの2行に殺し文句をもってくる。起承転結も大切。そして、自分も気持ち良く歌える歌を作ること」と極意を説く。
米寿を迎えた今もなお作詞を続けており、自作の曲は自身のユーチューブチャンネルで公開している。「何かがあるたびに『歌にしようか』と思う。とにかく作り続けたい。やるからにはもう一度、多紀町音頭のような〝ヒット曲〟を作りたい」。88歳。