「植物学の父」追っかけた父 「らんまん」のモデル・牧野富太郎氏 何度も揮毫依頼、息子は苦笑

2023.04.30
地域歴史自然

浴衣姿の樋口繁一さん(左)と牧野富太郎氏。昭和13年5月、老舗旅館「近又」での一枚(樋口さん提供)

NHK連続テレビ小説シリーズで放送されているドラマ「らんまん」。主人公のモデルとなったのが、「日本の植物学の父」として名高い牧野富太郎氏(1862―1957年)だ。94年の生涯を閉じる近くまで日本全国を回って植物を採集、標本を作製し、多くの植物に名前を与えた人物として大きな功績を残した。そんな偉人がたびたび兵庫県丹波篠山市を訪れ、親交を深めていた人物がいる。教師で、地域の自然に造詣が深かった同市畑市の樋口繁一さん(1910―95年)。繁一さんが残した牧野氏との交流の記録をもとに、繁一さんの息子、清一さん(86)に、亡き父との思い出とともに、当時を振り返ってもらった。

「牧野さんは当時、植物界のスター的存在。おやじはどうやら、今でいう牧野さんの『追っかけ』だったような気がします」と笑う。

繁一さんは教職の傍ら、多紀郡(現・丹波篠山市)内はもちろんのこと、赴任先の地域の植物の分布を調査して数多くの資料を残したほか、希少植物の発見にも尽力するなどし、「日本製シーボルト」のあだ名をつけられるほど博学だった。

自然に敬意をはらってのことだろうか。牧野氏は植物採集の際、必ず蝶ネクタイを着け正装していたという(樋口さん提供)

牧野氏との最初の出会いは1936年(昭和11)9月、繁一さん26歳、牧野氏74歳の時。繁一さんは、同県三田市の永沢寺で開かれた兵庫県博物学会主催の植物採集会に参加していた牧野氏に、丹波篠山市日置で採取した見慣れないユリ科の植物ミズギボウシの鑑定を求めた。すると新種であることが判明し、牧野氏によって「ヒオキギボウシ」と命名された。

この出来事は、当時の新聞紙上をにぎわせた。しかし、「学名が付けられていなかったので、残念なことに正式に新種登録はされていないようです」。

翌37年8月には、県内にある氷ノ山への採集に同行し、山頂で用意していた色紙に揮毫を依頼。牧野氏は「氷ノ山から谷底見れば萬居らない田が続く」などとしたためている。「マジックペンのない時代。筆、墨、硯石を持って氷ノ山へ上がったのでしょうか。そのなりふり構わずの厚かましさにはあきれてしまいます」と苦笑いする。

父・繁一さんが残した植物調査記録の冊子を感慨深げにめくる清一さん

さらにその翌年の38年5月には、牧野氏を丹波篠山へ呼び、ハダカガヤ、安田の大杉、六本柳、幻のラン「トケンラン」の自生地などを案内。その夜、老舗旅館「近又」で宿を共にし、翌日には、多紀連山の小金ヶ嶽をガイドし、シャクナゲを採集している。

繁一さんはその時の出来事を「シャクナゲの花の咲く時で、77歳の老先生、若い者をしのぐ元気で登山された」と記し、一服した際、牧野氏が詠んだ「薬もて補ふことをつゆだにも 我は思はず今日の健やか」を書としてしたためてもらった。書は額装して「樋口家の家宝」として現在も大切に飾られている。

牧野氏のゆかりの品は、主だったものだけでも軸2点、扁額、書、色紙、はがき各1点がある。「日本を代表する植物学の権威・牧野さん77歳、父・繁一は弱冠28歳。大先生を相手に掛け軸などへの揮毫を複数回も頼んだおやじの勇気に驚くととも

小金ヶ嶽登山で繁一さんから依頼され、牧野氏がしたためた書

に、牧野さんの気さくな人柄がうかがえる」とほほ笑んだ。

朝ドラ放送を契機に現在、ROKKO森の音ミュージアム(神戸市)で特別企画展「牧野富太郎のみちくさ―音楽、書、人々との交流」が開かれている。音楽や書道にも造詣が深かった植物学者以外の一面を展示やコンサートで紹介しており、樋口家に残されたゆかりの品々十数点も展示されている。7月2日まで。

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