少数派から開けた道 女子野球橘田監督が講演 「今を大事にして生きる」

2023.08.18
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歩んできた野球人生を語る橘田さん=兵庫県丹波市春日町黒井で

阪神甲子園球場で高校野球の熱戦が連日、繰り広げられている。一足早く決勝が甲子園で行われた女子高校野球の準決勝までの予選会場だった兵庫県丹波市で、履正社高校(大阪府)女子野球部監督で、女子野球日本代表監督を務めた橘田恵さんがこのほど、「今できることを全力で~女子野球選手・指導者・人として~」と題し講演した。内容は次のとおり。

◆競技人口増える女子野球

女子野球は基本的には男子と同じルールで、塁間などの距離も同じ。金属バットを使うのと、9イニングではなく、7イニングで争うところが男子の高校野球と少し違う。

今、男子の野球は競技人口の低下が社会現象と言われているのに対し、女子野球に関しては、競技者は増えている。野球をやっている男の子は、中学校、高校と上がると減っていく。女の子はやめなくなってきた。環境が整ってきたことと、2年前から決勝が甲子園でできるというのがすごく大きなことではないかと思う。

小学1年生から神戸市の女子野球チームで野球を始めた。3つ年上の姉が新聞広告で見つけてきたチームで、毎週もらってくるお菓子がうらやましくて私も入った。6年生でキャプテンになり、全国優勝を目指したが、全国では初戦敗退。本当に悔しかった。中学校でも野球をしたかったが、姉と同じソフトボールをした。キャプテンとして地区大会で優勝し、自分の中では大変満足した。

◆高校時代、メインの練習は「壁当て」

「高校では絶対に野球をやろう」と、学区では一番強かった小野高校を目指した。小野高校にいた姉が野球部の先生に聞くと、「今はそういう時代だし、いいんじゃないの」と言ってもらったので、勉強を一生懸命頑張った。しかし入学すると、その先生は転勤になっていた。

なかなか野球部に入れてもらえず困っていたところ、自転車で行ける距離にあった「神戸ドラゴンズ」という中学クラブチームの監督が「一緒に野球をやろう」と言ってくれた。当時の小野高校と同じぐらいの強豪で、1つ下に西武の栗山選手がいた。土、日曜はここで練習させてもらった。

高校からも許可が出て、練習生として参加した。でも、ノックは危ないと言われるなど、いろいろな制約があり、メインの練習は「壁当て」だった。くじけそうになっていた1年生の夏、家にあった新聞の1面で、アメリカで女子のプロ野球リーグが始まるという記事が目に入った。2人の日本人選手が載っていた。「よし、アメリカに行ってプロ野球選手になろう」と思った。

◆オーストラリアでMVP 「野球続けてきて良かった」

仙台大学では、紹介してもらった先生が学長に掛け合ってくれ、トップダウンであっさり野球部入部が認められた。全部一緒にやってついていけなかったらやめろと言われたが、ついて行けた。ご褒美だといって、仙台6大学の新人戦で2打席立たせてもらい、ライト前ヒットと送りバント。大学生活の打率は10割で終わった。ヒットを打った時、同級生の男子が泣いて喜んでくれた。

大学生の時、オーストラリアに野球をしに行った。全く英語がしゃべれず、ホームステイ先でも文化の違いに戸惑ったが、所属のクラブチームで、創部初の優勝に貢献できた。州の代表にも選ばれ、外国人選手として初めてのMVPを受賞。この瞬間、初めて野球を続けてきて良かったなあと思った。

◆通訳から日本代表監督に

私はかなりの強運。女子野球の指導者は女性が良いと言われる時代に指導者になった。当時、野球を経験している女性は少なかった。ただ好きだからやっていただけだが、少数派時代に選手として耐えて続けていたからこそ道が開けた。女子野球はスタッフの少なさから兼任が求められ、野球と英語ができる人がいなかったので、日本代表チームの通訳になり、まさかの日本代表監督になった。未来を考えて生きるより、とにかく今を大事にして生きる、頑張ることだと気づいた。

指導者としては、野球の能力イコール人間力ではないと常々思っている。野球人の前に一人の人。選手がこのチームで誇りを持てるか。指導者として選手を最後まで信じてあげられるか。監督として必要なものはコミュニケーション力。傾聴が大事だ。

◆橘田恵(きった・めぐみ) 兵庫県三木市出身。小学1年で野球を始め、小野高校、仙台大学時代は男子と一緒に硬式野球に打ち込む。2004年と05年にオーストラリアの女子野球クラブでプレー。花咲徳栄高校などでの指導者を経て、履正社高校女子野球部監督。18年の第8回女子野球ワールドカップで日本代表監督を務めた。

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