今から52年前の1971年(昭和46)9月25日、兵庫県丹波篠山市福住地区が熱狂したコンサートがあった。住民を前に福住小学校体育館のステージに上がったのは、演歌歌手の藤圭子さん。当時20歳だった藤さんは数々のヒットを飛ばし、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのスター。そんな彼女がなぜ、丹波篠山にやって来たのか。地元の人の協力を得ながら記者がその縁をたどると、藤さんと福住を結ぶ意外なつながりが見えてきた。シンガーソングライターの宇多田ヒカルさんの母でもある藤さんが62歳で他界してから今年8月で10年―。
「福住が沸き立ったあの日」の見出しで始まるのは、福住地区川原自治会が今月発行した「かわら版29号」。藤さんがやって来た当時の様子が掲載されている。自治会長の森田恭弘さん(64)は、「当時、私は中学1年生だったが、あの藤圭子が来るというので本当にびっくりしたことを覚えている」と言い、執筆の理由を、「私自身も興味があったし、皆さんの記憶を呼び起こし、話題になればと思って」とほほ笑む。
藤さんは、69年にデビュー。ハスキーボイスとすごみのある歌いまわしが特徴で、「新宿の女」「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」などの大ヒット曲で知られる。日本レコード大賞大衆賞、日本歌謡大賞大賞を受賞し、NHK紅白歌合戦にも出場した。
福住にやって来たのはそんな“超売れっ子”の時で、しかも無料。住民約600人が体育館を埋め尽くし、学校前では警察官が交通整理をするほどの沸き立ちようで、ステージではヒット曲の数々が披露された。
さらにその年の12月には、藤さんが「お礼に」と、福住小学校の児童たちに野球用具一式(約10万円相当)を贈っている。住民にとっては何もかもが異例ずくめだった。
当時小学6年生で、藤さんに花束を手渡した奥田格さん(63)は、「とても美人で良い香りのする人だった。世の中にはこんなにも華やいだ世界があるのだと知りました」と振り返る。
森田さんらによると、藤さんがやって来るきっかけとなったのは、藤さんとタッグを組んだ作詞家の石坂まさをさんを支援した“恩人”が福住にいたからだそう。
その人の名は大西誠一郎さん。無名時代から二人を支援していたが、活躍を見ることなく他界したため、藤さんらは大西さんの墓参りをし、恩人が暮らした土地でコンサートをしたという。
ここで森田さんが首をかしげる。「なぜ福住の大西さんが藤さんたちを支援していたのかが分からない。大西さんの妹さんが東京におられたそうなので、そこで何かつながりがあったと思うのだけれど」
記者もそこが一番気になったが、半世紀以上前の出来事で、当時を知る人は少ない。核心に触れられないままかと悩んでいた時、ふと思いついた。当時の新聞に何か手掛かりがあるのではないか―。
丹波新聞社本社の倉庫には1924年(大正13)の創刊時からの紙面が保管されている。倉庫の中で当時の紙面を繰り続け、ついに見つけた。
昭和46年9月26日号、3面トップ。見出しは、「おじさん聞いて下さい 藤圭子、福住で追善公演 恩人の三回忌法要に捧ぐ」。
本文2段落目には、「とかく人情うすれ行くこの頃、恩義を受けた感謝を忘れず、多忙なスケジュールの間をさいて、東京からはるばる丹波へ墓参にやってきた」とある。
当時の丹波新聞によると、誠一郎さんの妹、澤ノ井千恵さんの長男が龍二さん。この龍二さんこそ作詞家で、藤さんをプロデュースした石坂まさをさんだ。つまり、誠一郎さんは石坂さんの伯父。記事にはこうもある。
「(藤圭子は)澤ノ井さん方でみっちりと音楽を勉強したが、その無名の歌手を何くれと世話をし、力づけていたのが大西さん。『どんな苦しみにも歯をくいしばって、がんばれ』と励ましつづけた一方では、関西地方の後援会づくりに走りまわっていた」
その誠一郎さんが亡くなったのは、1969年(昭和44)9月25日。くしくも藤さんがデビューした日だった。
福住公演は誠一郎さんが逝ったちょうど2年後の9月25日。三回忌に当たり、成功した姿を霊前に見せるため、そして、受けた恩を返すための公演だった。
記事をさらに裏付けるため、石坂さんの自伝「きずな 藤圭子と私」(文藝春秋)にも目を通した。
すると、確かに、「母のち江(後に千恵と改名)は旧姓・大西といい、兵庫県多紀郡多紀町福住の農家の出身」とあり、戦時中の44年(昭和19)には、千恵さんと共に石坂さんも誠一郎さんが暮らす福住に疎開している。
さらに石坂さんが藤さんを売り出すための事務所を設立する際には、誠一郎さんを頼っている。石坂さんの記述では、誠一郎さんから、「郵便局の通帳を調べたら10万円しかない。とりあえず5万円用意したからこれを持っていけ」と言われたものの、「無理は言えない」と断っている。
また、誠一郎さんの訃報に触れた際には、「藤圭子というひとつの星が生まれた日に、もうひとつの星が静かに消えていく。私は人生の奇妙な符合を思わずにはいられなかった」と記している。
石坂さんは早くに父をなくし、千恵さんが苦労して育てた。親子とも互いを大切に思っており、「私は、藤圭子と、私の母・千恵のためにだけ詞を書いてきたのだった」とし、あの独特な歌詞の世界には千恵さんへの思いも込められていた。
また、千恵さんは、石坂さんに藤さんの面倒を見ることを勧め、住みこんでいた時には、「純ちゃん(藤さんの本名は阿部純子)」と呼んで世話し、麻雀まで教えている。千恵さんは、88年(昭和63)に83歳で他界。石坂さんは藤さんと同じ2013年に71歳で亡くなった。
調べてみると、改めて稀代の演歌歌手と作詞家の活躍の裏側に、深く丹波篠山の人々が関係していたことが分かる。
ノンフィクションライターの沢木耕太郎さんが藤さんをインタビューした「流星ひとつ」(新潮文庫)の中で、藤さんはこんなことを話している。
「田舎で歌ったりすることは少しもいやじゃないんだ。一度、田舎の体育館で歌っていて、終わったんで帰ろうとしたら、通路がひとつなんで、お客さんと一緒にゾロゾロと歩いていたの。そうしたら、座布団をかかえたおばあさんが二人、やっぱり藤圭子はいいねえ、とか言いながら、満足そうに前を歩いていたんだ。あたしにはぜんぜん気づかないで。それは、ああ、歌っていてよかったな、なんて思うよ」
この記述が福住のことを指しているのかは分からない。ただ、もしそうだとしたら、52年前のあの日は、福住の人々はもちろん、藤さんにとっても忘れられない一日だったのかもしれない。