芦田にあったマンガン鉱山 青垣町東芦田水源近く

2014.02.13
ニュース丹波市

写真・宝珠鉱山の坑口の一つ。 山の所有者が事故防止のため覆い、 鍵をかけ立ち入りを禁じている=青垣町田井縄で

 丹波市が開発した青垣町東芦田水源近くで、 第二次世界大戦末期にマンガン鉱山の経営が行われていた。 「福知山地域の地質」 (1990年、 通産省地質調査所刊) の地質図には、 青垣町田井縄に 「休鉱」 の地図記号があり、 「丹波年鑑」 (1953年、 丹波新聞社刊) には、 「氷上郡においては芦田村田井縄、 東芦田、 口塩久の一帯に産し」 との記述がある。 当時を知る人や地質に詳しい人は、 「鉱山の下流。 原水がマンガンを含んでいて当然。 なぜ、 あの場所を水源にしたのか」 と、 首をひねっている。

 砲身や車軸など軍需用の鉄を強化するのに必要なマンガンは、 戦時体制で需要が増え、 国内鉱山の開発が盛んに行われた。 昭和9年 (1934) には、 春日町上三井庄でマンガン鉱が見つかったとの記録がある。 試掘を含め、 丹波市内でも各地で地下資源の探索が行われた。

 丹波市で最大のマンガン鉱山が、 東芦田水源から西北1キロほど上流にあたるグリーンベル青垣 (青垣町田井縄) 一帯の 「宝珠鉱山」。 「年鑑」 によると、 本格的に掘削が始まったのは、 昭和18年 (1943) から。 手掘りで、 第二次大戦中は、 「月産600―800トンの好成績をあげ、 関西一の軍需省基本マンガン鉱山として名声を博していた」 とある。 「三〇―四〇%の優秀な品質をもつ金属マンガン鉱」 で、 確定鉱量3万2000トンに推定鉱量35万トンを加え、 「埋蔵鉱量38万2000」 との記述もある。

 田井縄に住む元中学教師、 足立均さん (84) は、 自宅近くの大神宮神社に隣接して宝珠鉱山の坑口の1つがあり、 活況を呈していたのを覚えている。 「昭和12年ぐらいから、 ぽつぽつと朝鮮の人が掘りに来て、 戦後もしばらくいた」 と記憶の糸をたぐる。

  「地元のお兄さんたちも、 兵隊に行くまで鉱山で働いていた。 おもしろい話を聞かせてくれるので、 よく遊びに行った」 となつかしむ。

 トラックが入れるように、 狭い集落の道を拡幅。 神社の駐車場には、 むしろを編んで袋状にしたカマスと呼ばれる袋に詰められたマンガン鉱石が山積みにされていた。

 神戸の親せきの所へ行く途中、 石生駅にマンガンを積んだトラックが止まっているのを見て、 「ここから汽車で運ぶんだな」 と思ったという。

 地質に詳しい元中学校理科教師の荻野正裕さん (84) =氷上町香良=は、 「福知山地域の地質」 を元に、 「あのあたりは、 『丹波層』 という地層で、 マンガンが出ることは知られていた」 と言い、 青垣中で教べんをとっていた当時 (昭和30―40年)、 田井縄と隣接し 「宝珠鉱山」 の坑口があった同町口塩久に、 マンガンなどの鉱石採取に行ったこともあると言う。

 2人とも、 「水道水を考える会」 の会員。 荻野さんは、 「適地かどうか、 掘削前の事前の調査・検討が甘かったのでは」 と指摘している。

  「福知山地域の地質」 によると、 宝珠鉱山は、 戦後の昭和21年 (1946) ―29年 (1954) まで掘削が続いた。 このほか、 氷上町北油良鉱山は、 昭和31年 (1956) から同34年 (1959) まで、 永郷池 (市島町与戸) 北方にも、 採掘時期は不明だが、 鉱山があったと記している。 これ以外にも、 氷上町鴨内に幸世鉱山、 同町伊佐口に伊佐口鉱山があると、 同書は記載している。

 

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