「仰いで之を見れば響雷の如く、勢電奔の如く、石鳴り山動き、白布の下垂されるが如く、噴味砕け雷雨の如く、散して烟霧の如く。其壮観実に奇絶快絶、一掬(きく)試めば、冷気凛然、満身忽(たちま)ち三伏の熱を忘る」。▼―このややぎこちない漢文調は、春日町出身の故・秋山徳三郎・元陸軍中将が明治39年、旧制柏原中三年の夏休み、友人と香良の滝に遊びに行った時のことを綴った日記の一節(原文のまま)。石井正紀氏が近著の伝記「技術中将の日米戦争」(光人社)に引用している。▼「日光華厳の滝に身を投じた一高生、藤村操の遺書『厳頭之感』を意識したか、中学生らしい背伸びした気取りが感じられる」とも書かれているが、ともかく、全般に今の中学生とは格段の差があったとは言え、15歳とは思えぬ筆力である。▼技術系軍人の最高ポストまで登り詰めた秋山は、大変な秀才だったばかりでなく、同じ日記に、毎朝冷水摩擦と鉄アレイを欠かさなかったこと、越前、京都への8日間の紀行文が記されるなど、なかなかの行動家。人格的にも魅力ある人物だったようだ。▼基地建設や燃料供給といった『縁の下』的な仕事に就き、同郷の海軍中将、大西瀧治郎らに比べると丹波でも知る者の少ない秋山だが、同じ技術者出身の石井氏により、光が当てられた意義は大きい。(E)