憲法記念日、市島町から少し福知山に入った所にある芦田均の生家、現記念館を訪ねた。今年は生誕120年。その頃火事に遭い新築された家の離れと庭が残り、同じ樹齢のクスノキが青々と天に伸びていた。▼芦田は筆者の崇広小、柏原高の先輩ながら、「外交官出身の元首相」というほかは「戦後日本国憲法を制定した当時の委員長。第9条にいわゆる芦田修正の文言を書き加えることで、再軍備など拡大解釈の道を開いた政治家」くらいしか、かつては知らなかった。▼しかし、日中戦争さ中の国会で斎藤隆夫(兵庫5区選出)が議会史に残る軍部批判演説をし、衆議院で除名決議をされた際、反対票を投じたわずか7人の中に芦田がいたことを知って以来、認識を新たにした。▼日米開戦直後の昭和17年、東条内閣のもとで行われた「翼賛選挙」でも、彼はごく少数の非推薦での当選。記念館に展示されたその時の選挙ビラには、「聖戦の完遂」以外の言論の自由なき中で、何とか議会をまともにしたいという気持がにじみ出ている。▼そしてGHQの支配下、新憲法の普及会長を務めつつ、迫り来る冷戦体制をも見据えていた芦田は、確かに現実主義政治家だったが、何よりも「リベラリスト」だった。その足跡を軸に戦前戦後の歴史を振り返ることは、また新たな意味を持とう。(E)