「侵略者」光秀の丹波攻め 桐野作人さん語る 敗戦ショックで死去説も 攻略後は一転、称賛へ

2019.11.30
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光秀の丹波平定について語る桐野作人さん=2019年11月17日午後1時45分、兵庫県丹波篠山市網掛で

歴史作家で、武蔵野大学政治経済研究所客員研究員の桐野作人さんによる講演「光秀の丹波平定―八上城攻めに寄せて」がこのほど、兵庫県丹波篠山市であった。戦国時代、明智光秀は織田信長の命で丹波国を攻め、苦戦しながらも八上城(同市)や黒井城(同県丹波市)を陥落させた。来年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公の光秀をテーマにした講演とあって約500人が来場、関心の高さをうかがわせた。要旨は次のとおり。

一度目は失敗の丹波攻め

今なお石垣が残る黒井城跡

光秀は、天正3年(1575)に信長に命じられてから、4年をかけて丹波を平定した。丹波だけにかかりきりになっていたわけではなく、本願寺攻めや、越前一向一揆に出張するなど東奔西走していた。それでも4年で平定したのは、なかなかの力量。しかし当然、光秀に激しく抵抗する人もいた。八上城主の波多野秀治、黒井城主の赤井直正といった人が、その代表的な人物だ。

丹波亀山城を拠点に、今の丹波篠山市、丹波市へと西へ攻めていった。だが、光秀は苦戦する。黒井城を攻めていたときに、光秀の味方をしていた波多野秀治が裏切ってしまう。私は中国地方の毛利家などと手を組んで信長を討つ方がよいなどの政治的判断があったのではないかと考えている。八上城が裏切ったために後ろの黒井城と挟み撃ちの状態になり、撤退せざるを得なくなる。

金塊で命乞いも殺害

波多野秀治が城主を務めた八上城跡

第1次攻略が失敗に終わったことで、光秀は、負けたショックと、信長にこき使われた疲労で寝込んでしまう。信長もわざわざ使者を使って見舞い、「言継卿記」という史料には、光秀が「風痢(赤痢)で死去した」と書かれている。よほど重症だったと思われる。

回復後、いよいよ光秀の八上城攻めが本格化する。八上城の周りを囲むように明智側の陣城が築かれた。こうなると、波多野側はもう逃げられない。1年3カ月に及ぶ兵糧攻めにした。光秀は囲っているだけ。ただ光秀の書状によると、波多野側もじっとしていただけではなく、反撃もしていたようだ。

光秀の書状をみると、「八上城を明け渡すよう手を変え品を変え懇願している」「籠城している400―500人が餓死している」「降伏した者の顔は青くはれ上がり、とても人に見えない」とある。また、ネズミ一匹通さないように包囲を固めよと命令したと言われている。

さらに、光秀に協力的だった「小畠」という家来に対しては、「いつでも八上城を焼き尽くす用意ができている」「敵においては、ことごとく首をはねろ。その首によって褒美を与える」と書いている。丹波の人から見れば、侵略者。第2次丹波攻略は、そのほとんどを八上城攻略に費やした。八上城が落ちると、黒井城も支えきれなくなったということだろう。

丹波を攻略した光秀は「前代未聞の大将である」と称賛された。史料からは、最初は波多野氏が平和的に八上城を明け渡したことになっているが、途中で光秀が罪人扱いにしたと読み取れる。ここは気になるところ。「織田軍記」には、光秀は、波多野に対し「信長が和睦したいと言っている」と働きかけ、波多野が「そんなはずはない」と疑うと、「自分の母を人質に出すから」と信じさせようとしたとある。丹波篠山で語られている、光秀の母の「はりつけ」シーンは、この「織田軍記」が原点ではないか。

その後の光秀は、本能寺で信長を討った後、山崎の戦いで羽柴秀吉に負けてしまい、本陣から離れて逃げまどう。ドラマなどでは、馬に乗っているところを竹藪に隠れていた百姓に槍で突かれる―というシーンを目にするが、実際は、秀吉側に気付かれないよう、馬にも乗らず、ほとんど一人で田んぼのあぜ道をはうように逃げた。馬に乗っていたというのは違う。百姓も光秀と知らずに叩き殺してしまった。

史料によると、百姓に金の延べ棒をさし出し、「坂本城まで案内してほしい」と言ったが、百姓は金塊を自分のものにしたうえに殺してしまった。その首を秀吉たちに届けると、「光秀だ」ということになり、胴体と首をつなぎ合わせ、東海道の京都の人通りの多い場所で、斎藤利三の遺体と一緒にさらされた。大津市の西教寺という明智一族の菩提寺で眠っている。

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