終戦から76年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は稲畑介廣さん(91)=兵庫県丹波市市島町北奥。
「戦時中の思い出は、どれも強烈な印象として残っています」
旧制兵庫県立柏原中3年生だった昭和19年(1944)7月、学徒動員で兵庫県尼崎市の大日電線で働くことになった。重工業地帯で、近くの住友金属鋼管製造所の3本の煙突から、もくもくと煙が上がっていた。
海底ケーブルの電線を撚る職場で、「とにかく国のために働くんだという気持ちで仕事をしていた」と振り返る。「大勢の工員や生徒が入る工場内の風呂は、ドロドロの“油風呂”だった」
阪神電車尼崎駅近くの国道沿いにあった寮で寝泊まりした。空襲に備え、いつでも逃げられるよう、生徒たちは寝るときもゲートル、革靴のままで、廊下に足を投げ出して寝た。「最終的にはひょっとしたら死ぬかもしれないと思っていた」と当時の気持ちを語る。
仕事の後、時々、工場の2階に先生が来て、「軍人勅諭」を覚えた。また地理や歴史も教えてくれた。ただ、英語の勉強は一切なくなった。食事は、コウリャン、豆かす、サツマイモなどを工場の食堂で食べた。米はほとんどなく、いつもお腹が空いていた。
一度、友人たちと“違法行為”で家に帰ったことがある。戦争が激しくなると、100キロの距離までの切符しか買うことが許されなくなったため、最長圏内だった大阪―黒井の切符を買い、市島駅で停車直前にホームへ飛び下り、そのまま線路から外へ出た。「月がこうこうと照る夜で、通過を知らせる信号機が『カシャン』と上がった音は、今でも忘れられない」。望郷の念にかられての行動だった。
昭和20年(1945)3月13日深夜から14日にかけての大阪大空襲は、「初めて戦争を実感した」体験として覚えている。
午前零時ごろ、警戒警報の長いサイレンが鳴り、「中部軍管区司令部発令。敵機がただいま潮岬方面(和歌山)を北上中」との放送が入った。それから「ウゥーウゥー」とけたたましい空襲警報に変わり、外へ出ると、大阪方面の空が真っ赤で、たくさんのB29爆撃機が見えた。
空襲は最初、夜間だけだったが、やがて昼間にも攻めてきた。空襲警報が鳴ると、近くの防空壕へ逃げ込み、そこから、B29が落とす焼夷弾が「夕立の粒のように雨あられと落ちてくるのが見えた」と語る。
昭和20年6月、グラマンと呼ばれていた戦闘機が尼崎一帯を襲撃。大日電線のトタン屋根を銃弾が貫き、火を噴いた。恐怖は体に刻まれ、「九死に一生を得たと思った」。
寮も焼夷弾で丸焼けになり、実家へ帰った。周りからは「沖縄の方へ敵を引き付けている」と聞いていた。8月15日。玉音放送は聞いておらず、友人から「おい、戦争が終わったらしいぞ」と虚ろな感じで声を掛けられた記憶がある。
6人きょうだいの末っ子として育ち、兄1人が戦死した。昭和19年12月、ビスマルク諸島で魚雷を受けて海底へ沈み、遺骨も戻らなかった。
妻の兄2人も、共に22歳で戦病死。長兄は、昭和17年(1942)に中国の戦いで亡くなった。次兄は兄の敵を討つと、呉の大竹海兵団に入隊したが、受けた銃弾がもとで、終戦直後に没した。
戦後、神戸大学兵庫師範学校を卒業して教師になった。5年間勤務した尼崎市立上坂部小学校では、昭和19、20年生まれの児童を受け持ち、「あの時生まれた子たちか」と特別な感情を抱いたという。教え子たちに、戦争の体験を交えながら、正しく生きること、平和の大切さを伝え続けた。
戦後70年の節目には、家にあった義兄たちの遺品を整理した。戦地からの軍事郵便はがきや、鴨庄村長・吉見伝左衛門直筆の弔辞、出征時の寄せ書きなどを義父が大切に保管しており、「遺品を残すことは、自分の責任」と感じたからだ。
「人間が互いに尊重し合って豊かな世界づくりをしなければいけない。恒久平和、それが私の願いです」