取材をしてもらえるということで、親父が死んでから、きょう初めてこの箱を開けます。私もまだ、中身は全く分かりません」と前置きし、古びた真っ黒な木箱のふたに手を掛ける岡田龍雄さん(69)=兵庫県丹波市柏原町柏原=。ふたの表には、「戦争の事実を後世に伝えてください」と書かれた木札が貼り付けられている。同市春日町下三井庄の龍雄さんの生家で、2つの木箱の中から、日中戦争から太平洋戦争にかけての資料が大量に出てきた。2007年9月、88歳で逝去した龍雄さんの父、好一さんの戦争の記憶―。
畳の上には▽出征時に掲げられたと思われる「祝 入営 岡田好一君 下三井庄区」と書かれた長さ3メートルもある絹製の幟▽昭和13年12月10日の日付に大阪野砲四連隊入営と書かれた餞別控え帳▽無数の人名が寄せ書きされた70センチ×80センチの日の丸国旗▽千人針▽背のう▽日記▽戦友との写真▽軍靴▽鉄かぶと▽記章▽地図―など戦時中の品々が次から次へとひろげられた。
中には、昭和18年12月の日付で「陸軍大臣 東條英機」と記された感謝状も。好一さんの父、敬四郎さんが軍へ大量のコメを寄付したことに対してのもののようだ。
「生前、親父は戦争のことをほとんど語らなかったので、兵士だった頃の親父についてはよく分からないのです」と龍雄さん。「ただ時々、蓄音機で『露営の歌』を聞きながら涙を流していたのは覚えています」と資料を整理する手を止めた。
資料から好一さんの兵歴を簡単にひもといてみると、日中戦争開戦の1年5カ月後の20歳の時、大阪野砲四連隊入営。昭和16年11月29日、陸軍兵長から伍長へ昇進―。
龍雄さんと妻の潤子さん(70)が、好一さんの両親らから聞いた話によると、尋常高等小学校を卒業後、農協に勤めるなどして新婚生活を送っていたところに召集令状が届き、砲兵として大阪や和歌山へ出征。兵役を終えて帰郷し、子どもをもうけたが、再び赤紙が届き、今度は姫路で軍馬の世話などに従事した。終戦後は農業を生業とした。
龍雄さんは、「内地に勤めていたから命がつながった。でもこの資料の数だけ苦労をしてきたんだろうなあと思うと、こみ上げてくるものがある」と目頭を押さえた。
また木箱には、「平和祈念事業特別基金」(東京都)と記載された保管カードも貼られ、「この資料は、後世に語り継ぐための貴重な資料となることも予想されますので、大切に保管して下さるよう―。処分されるような場合は御連絡を―」と書かれている。
「基金に遺品を預かってもらおうかとも考えたが、これらの資料を目の当たりにし、頑張って生きた親父のことを思い返すと、もうしばらくは自宅で保管したい。親父の遺志を引き継ぐためにもね」と龍雄さん。「あれから76年。戦争を語り継げる人が本当に少なくなってきている。私たちも戦後の人間。3人の息子がいるが、この資料をもとに知っている範囲でしっかりと説明し、あの時代のことを伝えていきたい」