終戦から76年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は寺内裕子さん(89)=兵庫県丹波市山南町岩屋。
「小学校時代は勉強なんて、ほとんどしておりません。毎日、山へ行き、炭焼きの木を切ることばかりしていました」
新井国民学校初等科(現・新井小学校、同市柏原町)4年生の時に太平洋戦争が勃発。役場に勤めていた父親が学校にやって来て、校長と「とうとうやりましたなあ」と会話した情景が焼き付いている。
登校するとまず、忠魂碑に手を合わせ教室へ入った。かばんを置くと、4年生以上はすぐに山へと向かった。現場は同市山南町玉巻付近。徒歩で30―40分掛けて通った。高等科2年(中学生)は炭焼き担当で、それ以下は木を切って炭にする材料作りに励んだ。運動場を開墾し、サツマイモやジャガイモを植えたので、運動場を走り回って遊んだことはなかった。
6反を耕す農家だったが、作った米の多くを供出していたため、白米だけを茶碗に盛って食べた記憶はない。主食は麦飯。「ただ、それすら満足に食べられない人もいた。立派な家に暮していても非農家であった人たちからはうらやましがられました」
出征兵士を送り出すたび、近くの新井神社に集まった。武運長久を祈る式典は長時間に及び、夏場は暑さで倒れる人が大勢あった。「しんどくなってお堂の陰に隠れて休んだこともありました」。戦地へ赴く兵士を同市柏原町挙田まで見送った。「バンザイ、バンザイと、それは盛大でした。しかし敗戦後は、復員兵が一人とぼとぼと故郷に向けて歩く姿を見て、何とも言えない気持ちになりました」
「世界はまた、きな臭くなってきた。戦争に勝っても負けても互いに不幸になるだけなのに」