「つらい、苦しい、ひもじい」 少女の困窮の暮らし 戦後77年―語り継ぐ戦争の記憶②

2022.08.17
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太平洋戦争勃発前、家族で撮った写真を眺める吉積さん=兵庫県丹波市市島町上竹田で

今年で終戦から77年が経過した。戦争を体験した人や、その遺族の多くが高齢化、もしくは亡くなる中、丹波新聞社の呼びかけに対し、その経験を次世代に語り継ごうと応じていただいた人たちの、戦争の記憶をたどる。今回は吉積洋子さん(83)=兵庫県丹波市市島町上竹田=。

終戦の年、 1945年(昭和20)の8月に6歳になった。獣医だった父は翌9月に他界。食糧難だったこの時代、男手のない家庭で育ち、暮らしは困窮を極めた。「つらい、苦しい、ひもじい。それしか考えられなかった。そんな時代でした」。

兵庫県丹波市市島町上竹田の倉崎集落で生まれ育った。11人きょうだいの10番目。太平洋戦争勃発後、長男は陸軍、次男は海軍へ出征した。三男は名古屋の軍需工場に行っており、自宅には自身のほか、母と3つ上の兄、姉2人、弟1人と、その日その日を食いつなぐ日々を送った。父は出張が多く、家にいることはまれだった。

兄の出征時、市島駅まで見送りに行った。日の丸の旗を持ち、みんなが何度も「バンザイ」をするので、「兄さんは良いところに行くのか」と思っていたという。

米を育ててはいたが、ほとんど供出に回った。わずかな保有米は貴重で、切ったサツマイモのつるや、ゆがいた麦を米に混ぜ、量を増やした。「ゴロゴロしていて食べにくい。ただ腹を満たすだけのものだった」。米を分けてほしいと訪ねてくる人がおり、母は売っていたようだった。朝鮮の出身者も頻繁に来ていたという。

食糧は自分たちで確保するのが常だった。イナゴは揚げ、タニシは炊いて食べた。大水の時、3つ上の兄が溝で捕まえてくるナマズやウナギがごちそう。母が調理し、一部は乾燥させて保存食に回していた。スズメも貴重な食糧だった。

おやつはスイバやイタドリ、桑の実、生梅など。マツヤニは飲み込まないが、ガムのようにして噛んでは食感を楽しんだ。秋に食べるアケビは“高級品”で、「見つけるとうれしかった」と懐かしむ。

どこの家も食べるものは少なく、栄養失調で亡くなったと思われる人も多かったという。終戦前後は肺結核が流行し、「知っていた美しい女性も亡くなった。何度も『また葬式か』と思っていた。全て時代のせいだ」と語る。

幼いながらも、農作業やコクバ(たき付け)拾いなど、仕事は山ほどあった。一番の楽しみは、餅が食べられる正月。中に炭を入れる、こたつのような暖房器具「ばんこ」で暖を取り、友人とかるたをするのが何よりの楽しみだった。

「飛行機が怖かった」と言い、米軍の爆撃機B29が頻繁に飛び、飛行する音が聞こえると自宅近くの小さな防空壕に隠れた。入れなければ暗渠に逃げ込んだ。

終戦の翌年、前山小学校に入学。姉のおさがりのランドセルと服で通った。唯一、新しいものは、母が作るわら草履だったが、2日で駄目になった。雨や雪の日は浜下駄を履き、靴を初めて履いたのは高学年の時。「それはそれはお粗末だった」と振り返る教科書は、ざら半紙に刷られたもので、所どころインクが乗っていなかった。

ロシアによる侵攻報道に触れ、「大勢が死に、苦しんでいる。何の得にもならない戦争をなぜするのか。戦争は駄目だということは、みんな知っているはず」と強く憤る。「今は豊かな世界なのに、なぜ解決できないのか。早く収束させることを強く願います」

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