万寿元年(1024)、京都の石清水八幡宮より御分霊を勧請し、丹波国「柏原別宮」として創建された兵庫県丹波市柏原町の柏原八幡宮。昨年、御鎮座1000年を祝う大祭が厳粛に執り行われた。地元の柏原地域だけでなく、丹波市のシンボルとしても広く親しまれ、愛されている。4年前から1000年の節目を迎えるのを記念し、「令和の大修造」と銘打った改修作業が行われ、趣を一新した。そんな柏原八幡宮の「あんな話こんな話」をまとめた。
「三重塔」 もともとはお寺の宝塔 廃仏毀釈の嵐に抗して今に残る
柏原八幡宮の境内にある三重塔は、明治初期の廃仏毀釈という時代の荒波をかいくぐった貴重な歴史的建造物である。
神社と寺院が分離している今の時代からは想像しづらいのだが、150余年前まで神社と寺院は隣り合わせだった。大きな寺に行くと、どこでも神社が横にくっつき、大きな神社に行くと、どこでも大きな寺が横にくっついていた。神仏習合、神仏混交が当たり前だった。
日本人は、古代から伝わる神道と、伝来の宗教である仏教を融合した。日本の神様と仏様は、イコールの等式で結ばれていた。各地の神社には、神=仏を供養するために、僧侶が仕える神宮寺がつくられた。柏原八幡宮にも神宮寺があった。乗宝寺という。
明治元年(1868)、新政府は「神仏分離令」を出し、神仏を引き裂いた。日本に迫ってくる欧米がキリスト教という原理を持っているのに対して、新政府は、日本古来の神道を強化して対抗しようとしたのが神仏分離令の理由だとされる。
神仏分離によって廃仏毀釈運動が起きた。仏像や仏具を破壊し、経文を焼くなどの動きが各地でぼっ発した。廃仏毀釈で大きな被害を受けた寺院の一つとして知られているのが奈良の興福寺。多くの仏像や建物が破壊され、僧侶は全員、春日大社の神官にされた。
廃仏毀釈により柏原八幡宮の三重塔は存続の危機にさらされた。三重塔は、もともと柏原八幡宮の神宮寺である乗宝寺の宝塔だった。応仁年間(1467―69)に乗宝塔の僧侶、秀慶が建立したのが最初だった。
榊賢夫氏の著書『歴史物語 丹波柏原』によると、寺の象徴とも言える三重塔が社領にあるのは納得のいかないことだとして取り除くことになり、競売にかけられた。なかなか買い手のつかない競売に業を煮やした男が名乗り出たものの、あまりの高額に尻込みし、解約を申し出たという。
その後、知恵者が現れ、三重塔を「八幡文庫」だと称した。書庫として使用するということで存続が許された。かくして今に伝わる三重塔だが、塔が現存する神社は珍しく、全国でも18例に過ぎないという。
柏原八幡宮の三重塔は、明智光秀の丹波攻めによって焼失し、再建されたものの落雷で再び焼失。現在の塔は文化12年(1815)、乗宝寺の僧侶、経仁が再建したもの。県指定文化財となっている。
乗宝寺はもともと現在の柏原八幡宮の社務所の所にあったが、神仏分離の際、寺の堂宇が柏原八幡宮の所有となったため、入船山(柏原八幡宮の鎮座する山)の東麓に移った。
「狛犬」 丹波佐吉、初代柏里の渾身の作
柏原八幡宮の社殿前にある狛犬は石工の丹波佐吉、八幡宮内の厄除神社前にある狛犬は彫り物師の初代磯尾柏里が作った。いずれも名人と称えられる職人だった。
佐吉は文化13年(1816)、兵庫県朝来市和田山町の生まれ。幼くして両親と死別した佐吉を、柏原町の石工、初代難波金兵衛が引き取って養育し、石工として鍛え上げた。その後、柏原を離れるが、子どもの頃に読み書きを教わった上山家からの依頼で、柏原八幡宮の狛犬を製作した。石で、音の出る尺八を作り、ときの天皇に献上されたというほどの技量を持っていた。
初代柏里は明治23年(1890)、柏原町の生まれ。子どもの頃から彫り物師になりたいとの夢を抱いていたが、親の反対でかなわず、30代半ばから独学で彫り物に取り組み、貧苦にあえぎながら彫り物を極めた。木彫を主とした柏里にとって狛犬は初めての石彫だった。晩年、兵庫県文化賞を受けた。
柏原厄除大祭に大物歌手ら 橋幸夫、春日八郎、五木ひろし…
柏原八幡宮で2月17、18日に行われる厄除大祭。大祭を盛り上げる協賛行事として、かつては大物歌手らを招き、市街地にあった氷上郡公会堂でショーを催すのが恒例だった。試みに昭和40年代(1965―74)、どのような芸能人を迎えたかを、丹波新聞のバックナンバーから探ってみた。
昭和40年は、橋幸夫。35年に「潮来笠」でデビューし、日本レコード大賞新人賞を獲得した橋は当時、絶大な人気を誇るスターだった。
昭和41年は、こまどり姉妹。36年から7年連続でNHK紅白歌合戦に出場するなど、絶頂期にあった。
昭和42年は、青江三奈。前年の41年に「恍惚のブルース」でデビューし、この年、NHK紅白歌合戦に出場した。「東京の灯よいつまでも」のヒット曲があった新川二郎も出演した。NHKの音楽番組の公開録音も兼ねた歌謡ショーだった。
昭和43年は、佐良直美。前年、「世界は二人のために」がヒットし、レコード大賞新人賞を獲得していた。丹波新聞の記事には、佐良のほかの出演者として「今陽子」の名前がある。この年に「ピンキーとキラーズ」を結成、ボーカルとして夏に「恋の季節」を発表し、国民的人気を得たピンキーのことだろう。
昭和44年は、「お富さん」「別れの一本杉」などのヒット曲がある演歌界の大御所、春日八郎。
昭和45年は京都祇園歌舞練場一行による「都をどり」、46年は世界魔術競技に日本代表で出場した松旭斎広子のマジックショー、47年は映画会、48年は人気漫才師の京唄子・鳳啓助らの芸能ショー。
一時期、大物歌手によるショーから遠ざかったが、昭和49年は、前年に「夜空」で日本レコード大賞を受賞した五木ひろしを迎えた。丹波新聞の記事には「二回の公演に会場は三千百人で埋まった」とある。
蛇足ながら昭和51年には由紀さおり、中条きよしを迎えた。