1995年1月17日、震度7を記録し、死者は6400人を超えた阪神・淡路大震災が発生。今年は震災から30年を迎えた。当時、大学生で、下宿先の神戸市東灘区で被災した、佐藤美穂さん(50)=同県丹波市=に体験を聞いた。
甲南大学の2回生で、大学近くの学生マンション3階に住んでいた佐藤さん。震災前日の16日は、地元の成人式に出席し、夜に東灘区の下宿先へ戻った。
翌朝午前5時46分。「ごーっという地鳴りが聞こえ、縦揺れでベッドから体が浮き上がった」。あまりの恐怖に布団にくるまってうずくまるしかできなかった。
経験したことのない揺れが収まると、たんすがベッド脇に倒れ、電話機や電子レンジがふっ飛んでいた。建物の外で、「大丈夫かー」と叫ぶ声が聞こえた。一瞬青ざめたがわれに返り、貴重品を取り出して、玄関の方に倒れていた冷蔵庫を乗り越えてドアを開けた。
4階に住んでいた友人や大家さん、他の住人らと一緒に外へ出た。普段なら車の多い国道2号が「しーんと静まり返っていた」。隣の自転車店は崩れていた。国道には大きな亀裂ができ、あちこちで倒壊した建物のガラスの破片や木くずが散乱している。車はもちろん、歩くのもままならない状態。皆、しばらく呆然と立っていた。
次第に、公衆電話の方へ向かって国道を歩く人の列ができてきた。毛布をかぶっている人、血を流している人…。戦争の映画で見た光景のようだと思った。
サークルの先輩の家で電話を借りて実家へ安否を知らせることができた。大学は試験日だったので、友人らと様子を見に行くと、「しばらく休講します」の貼り紙。壊れた建物もあり、廃墟のように人けがなかった。
歩いている途中、空腹を感じて焼き芋屋の列に並ぶと、「1個3000円」と店主。買うのを諦め、「人が困っているときにもうけようとする人がいるのか」と驚いた。
上着を取りに一度下宿へ戻ると、自転車店の住人が救出されるところだった。「良かった」。胸をなで下ろした。
「近隣でガスが漏れているみたい。この辺りに避難勧告が出ているから早く避難所へ行って」と大家さんに促され、近くの本山第一小学校へ移動した。避難所はすでにごった返しており、疲れて眠った。おにぎりの配給が始まると、近くに寝ていた人が起こしてくれた。ありがたく感じた一方、「帰る実家がある自分たちがおにぎりをもらっていいのだろうか。邪魔になってはいけない」との思いも湧いた。
余震もあり、その晩は一睡もできなかった。実家に帰るため、翌日、西宮駅まで歩いた。他にも同様の人が多くいた。
動いている路線を探して乗り継ぎ、福知山回りで実家にたどり着いた。他県の友人らも一緒で、両親は「おかえり。ビックリしたなあ…」と迎えてくれた。
大学はそのまま春休みに入り、次に神戸に戻ったのは3月だった。東灘区は被害の大きかった地域で、亡くなった同級生もいた。下宿先はたまたま半壊で済んだが、「もしもう少し違う場所に立っていたら」と考えるとぞっとした。追悼式もあり、「生かされた」ことへの感謝と重みを強く感じたという。
その後、グラウンドにプレハブの校舎が建ち、授業が再開された。「友だちの顔を見て、一緒に授業を受けて、部活もできて、卒業まで学校に通えたことは本当にありがたかった」
震災の経験から「人とのつながりの大切さ」が身に染みた。近くに友人がいたことや、大家さんたちとも親密だったことが、いざというときに心強かった。自分の子どもたちには、こうしたことも伝えたいと思っている。
家庭の防災面では、寝室と玄関には極力、物を置かないよう気をつけ、水は常に確保している。
昨年から丹波市市民活動支援センターに勤務し、人と人が出会う場づくりをサポートしている。「震災で生かされたことに感謝し、これからも日々を大事に生きていきたい」との思いを抱きながら―。