明治時代、3人の人物と新興国だった日本、そして日清、日露戦争を描いた「坂の上の雲」。主要人物の一人、東郷平八郎が揮毫した書などが兵庫県丹波篠山市に伝わり、出身の本郷房太郎が地元と東郷をつないだ可能性があることが分かった。再び同市福住地区。地元の森田恭弘さん(65)=川原=が、「本郷さんの書が福住にある」と教えてくれた。=関連記事㊤よりつづく=
場所は山中にある戦国期の山城「籾井城跡」。そこにそびえる忠魂碑の石碑には、「陸軍大将従二位勲一等功三級 本郷房太郎書」と刻まれている。昭和3年(1928)5月の建立。刻まれた文字、素材の石、大きさなどがほぼ同じ石碑が澤田八幡神社前にもある。
森田さんと共に山中の石碑を訪ねて、思わず「えっ?」と声が出た。石碑の前にあったのは、「大砲」だ―。「僕たちが子どもの頃からあった。格好の遊び場だったこの場所を、『大砲山』と呼ぶ人もいましたよ。でも、これが何なのかはさっぱり」
市教育委員会社会教育・文化財課に問い合わせたところ、「九糎加農(9㌢カノン)」の砲身という。アジア歴史資料センターの資料によると、石碑が建立された年の9月、福住村長の樋口市左衛門から陸軍大臣の白川義則に宛てて、「戦利品下附願」が出されている。日清戦争の際、日本軍が清国軍から奪ったドイツ製の野戦砲で、村長はその目的を、「(忠魂碑に)異彩を添え、思想善導に資す」としている。
時期的に考えて日清、日露戦争の戦没者のための慰霊碑と考えられるため、敵軍から奪った大砲を置くことで村民に壮絶な戦場を想起させ、慰霊の念と共に富国強兵の思想を根付かせようとしたのかもしれない。
ちなみに川原の住吉神社の境内には、「乃木大将夫妻瘞血(えいけつ)之所枇杷(びわ)」と刻まれた石柱があり、その背後にはビワの木が立つ。
乃木は陸軍大将・乃木希典のこと。「坂の上の雲」にも登場し、日露戦争時に激戦となった旅順戦で指揮を執った。また、明治天皇崩御後には後を追って殉死したことが有名だ。
「瘞血之所」は、乃木夫妻が東京の家で殉死した際、血が付いたものを埋めた場所。石柱の側面には、「大正十三年蒔種 本郷大将 伊豆少将」とある。文字通り読めば、乃木邸にあったビワの種を本郷らが持ち帰って植えた場所のようだ。ここにも本郷とのつながりが垣間見える。
他に日露戦争に関するものがないか、関係者に当たってみると、「閉塞石があるのは知っていますか」―。
日露戦争時の1904年(明治37)、東郷率いる連合艦隊が中国・旅順で行った「旅順港口閉塞作戦」で使用された石。この作戦は、ロシア艦隊がいる旅順港の入り口に、古い船に石などのバラスト(重し)を満載して沈めて閉鎖するものだった。「坂の上の雲」の主人公、秋山真之も関わっている。その石が旧福住小学校と澤田八幡神社前にあるという。
福住小の石は、日露戦争に従軍した2人が戦後の掃海時に海から引き揚げて持ち帰ったもので、銘板には、「総指揮官有馬中佐の千代丸及び廣瀬中佐の福井丸に搭載したる記念の石なり」とある。廣瀬中佐は、廣瀬武夫のこと。秋山真之の盟友で、閉塞作戦の中で戦死している。同校の少年団が中佐の戦死30年を記念して台石を設置したとされる。
澤田八幡神社の石も同じく従軍した人々によって寄贈されている。
丹波篠山文化顕彰会のメンバーで、閉塞石について調べたことがある池田正男さん(池上)は、「戦争に関わった人たちが地元の神社などにいろんなささげものをしている。無事に帰ってきたよ、という証しだろう」と話す。
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100年以上前、近代国家の一員として産声を上げた日本と、戦争。その縁が丹波篠山の各地に残されている。それらに触れることで「坂の上の雲」が遠い時代の物語ではなく、より身近に感じることができるのではないだろうか。