戦争俳句

2012.08.04
丹波春秋

 暑い日が続く。この暑さを表現する言葉に「劫(ごう)暑」がある。劫は、おびやかす、などの意味がある字。きわめて厳しい暑さを思わせる「劫暑」だが、片山桃史(とうし)はこの劫暑を用い、「我を撃つ敵と劫暑を倶(とも)にせる」と詠んだ。▼桃史は大正元年、春日町黒井の生まれで、戦争俳句で知られる俳人。先の句も戦争俳句に入ろう。昭和12年に出征。帰還後、再び出征し、19年に東ニューギニアで行方不明となり、敗戦後の22年4月、戦死の公報が届いた。31歳の若さだった。▼先ごろ桃史のふるさとで、桃史の遺品展が開かれた。その中に「祝出征」と書かれた縦6メートル、幅70センチほどののぼりがあった。昭和12年の出征時、地元から贈られたもので、こののぼりを先頭に村の人たちと神社で祈願をし、黒井駅で万歳の声と共に見送られたという。戦争で、俳句の道が断たれた桃史の無念を思うとき、「祝出征」の「祝」の字がむなしく、哀しい。▼「遺品あり岩波文庫阿部一族」。桃史と同様、新興俳句運動に加わった鈴木六林男(むりお)の句だ。先ごろ丹波市であった講座で、講師を務めた俳人の足立幸信さん(青垣町)は、この句を「戦争俳句の最高傑作だと思う」と紹介しつつ、涙ぐまれた。▼桃史をはじめ、戦争で命を落とした文学青年の悲しみを思う。(Y)

 

関連記事