「もの」にこだわらない精神

2011.06.25
丹波春秋

 住民の間で賛否両論の動きが起きている原発建設予定地を取り上げたテレビ番組を見た。そのなかで、原発に反対なのであろう老女の言葉が鮮やかだった。「私らは、ロウソクの暮らしだって不自由しない。山から木を切り取ってくれば、米だって炊ける」。▼生活に対する態度が、家電製品に慣れきった当方とはまったく違う。たくましい生活力。それに加えて、家電がなくても不自由を感じず、生活を満喫できるという、あっぱれな自負。脱帽のひとことだ。▼ただ、薪で米を炊くような生活は、それほど大昔のことではない。室内が家電製品などの「もの」であふれかえった暮らしは、歴史から見れば、まだ最近のことだ。たとえば、幕末に日本を訪れたシュリーマンは、家具の類が一切ない暮らしぶりに感嘆した。これは何も庶民に限ったことでなく、江戸城に登城した初代アメリカ公使も「宮殿にはまったく何も装飾がない。何もない」と驚いた。▼地震などの災害が多かったことも、ものにこだわらない精神の背景にあったようだ。また、それ以上に、作家の中野孝次氏が指摘するように、「疏食(そし)をくらい、水を飲み、肱(ひじ)を曲げて枕とす」(論語)の精神が、日本人の共通の心得であったのだろう。▼テレビで見た老女にはまだその精神が生きていた。(Y)

 

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