死に親しむ心

2016.04.16
丹波春秋

 篠山の春日神社で先日、催された「篠山春日能」。能舞台を際立たせるかのように、上演中ときおり桜が舞ったそうだ。桜は、咲いている姿だけでなく、散る姿も美しい。その姿について新渡戸稲造は、「自然の召しのままに何時なりとも生を捨てる」と表現した。▼この文は、「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」で始まる『武士道』の中にある。新渡戸によると、武士道の源泉の一つに仏教があるという。いつなりとも生を捨てる桜のように、仏教の説く「生に執着せず、死に親しむ心」が武士道の根幹にあるとした。▼江戸期に書かれた『葉隠』。「武士道といふは死ぬ事と見つけたり」という言葉で有名だが、こう書いたあとで「私も含めて誰でも生きる方が好きである」としるしたように、命を軽々しく見ていたわけではなさそうだ。▼毎日毎日、死に身にとなる修行を積み重ねる。そんなふうに前方に死を置き、私心を捨てて事にあたる覚悟を持つように説いたものだと言われる。▼前方に置いた死から生きることを問いかけた言葉がある。「君は何に命をかけるか。君は何の為になら死ぬ事ができるか。この問いに答える事が、生きるという事であり、この問いに答える事が、人生である」(哲学者・芳村思風)。さて、どう答えるか。(Y)

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